2014年9月27日土曜日
殿敷 侃(とのしき ただし)のショック
前回のブログで、1942年に広島で生まれたアーティスト、殿敷の作品について書きました。多様な解釈を赦すその卓越したアイディア、圧倒的な存在感について。ところが、ある日本人アーティストが、殿敷の作品「お好み焼き」を、自分のインスタレーションの中に入れてしまったと聞き、大変ショックを受けています。
福島原発の建屋そっくりに作った檻の中に、「お好み焼き」の本物を入れてしまうというプロジェクト。檻の中に入れられた殿敷の作品は、ほんの一部しか見えなくなります。プロジェクトの説明はネットで見られます。
http://www.soukasha.jp/miki/project.html
オマージュのために、コピーや、元の作品を思わせるものを使うという手法ならよくあります。たとえば、ウォーホルへのオマージュにキャンベル缶を使うとか。ゴッホもミレーや日本の浮世絵を彼なりにコピーしました。ピカソはベラスケスの名画に想を得て、新しい絵画を制作しました。
たった一つしか無い本物を自分の作品に入れてしまうって、アリでしょうか?インスタレーションはすでに公に展示されましたが、その後も返却せず、自分の作品の一部として、入れたまんまにしてあったとのこと。
ということは、殿敷の展覧会をする時は、そのアーティストが、殿敷作品を「貸す」ということ?横浜トリエンナーレも、このアーティストから「借りた???」。トリエンナーレ終了後は、また檻の中に戻るという話を聞いています。
関係者の許可は得ているそうです。それがゆるされるのであれば、現代アーティストたちは、こぞって自分のインスタレーションにピカソだのゴッホだのを入れようとするかも。
作品は誰のものなのか。所有者の許可を取ればそれで済むのか。もうこの世にいない芸術家の作品を、今生きている者はどのように扱うべきなのか。
ダビンチだのピカソの作品だったら、こんなことは想像もできないはず。自国の20世紀の作家だったらいいのでしょうか?オマージュと言いながら、亡くなった作家への敬意はどこにあるのでしょう。
「反原発やエコロジーといった個別の主題につなげて殿敷の仕事を解釈するあらゆる試みは短絡のそしりを免れない。」という小林清人氏の優れた批評を前回ご紹介しました。原発の建屋そっくりな檻に『お好み焼き』を閉じ込めるというプロジェクトは、まさにこの作品の意味をたった一つの解釈に閉じ込めてしまうことにほかなりません。
さらに、「基金提供者の名前を」「プレートに手作業で刻印」とありますが、「基金」とは何のことでしょう?自分の作品を作るのに要した費用のことでしょうか?よくわかりません。原発のせいで大変な思いをしている人々に寄付した方がいいのでは。原発反対運動の高潮を利用して、知名度を稼ごうとしているようにも見えなくはありません。檻の制作に何百万もかかったという噂は本当でしょうか。
殿敷の大作が、どうして美術館に入ってないのか?考えてみると、美術館に入ることを拒否するような作品だからでしょう。2トンの総体を持ち上げただけで、ポロッと破片が落ちてしまいそうです。しかし、すでに前世紀に、ワーク・イン・プログレスという観念も普及していることですし、美術館にも頭を柔らかくしてもらいたいものです。
国際的にも評価を受けている殿敷。現代美術界の大物ダニ・カラヴァンも、『祈り - 殿敷侃へのオマージュ』という作品を作っています。(もちろん彼は、殿敷の作品を使ったりはしていません)
もうインスタレーションを発表してしまった当のアーティストには、内外からの批判が高まる前に、本物を使うというアイディアを放棄していただきたいものです。
2014年9月25日木曜日
殿敷 侃(とのしき ただし)のショック
「こんなアーティストが、日本にいたのですね。」
横浜のトリエンナーレに彼の遺作が展示されているそうで、これを機会に、殿敷を発見し、再発見する人も増えるでしょう。インスタレーションやアッサンブラージュによる表現が多い作家でした。形に残る大作としては唯一のものかもしれません。
広島出身。3歳のとき、二次被爆したそうです。
作品は、1987年に山陰の浜辺で行われたプロジェクト「ゴミ拾いをアートする」から生まれました。100人以上の賛同者と一緒にゴミを拾い集めたそうで、当時の写真を見ると、子供たちも大勢参加していたのがわかります。殿敷は、周囲の「普通の人々」をも自然に巻き込んでしまう才能があったのでしょう。
集められた漂流ゴミは、6時間かけて焼き固められました。総重量2トン。熱によって変形し、焼きただれたペットボトル、缶、黒々と溶けたプラスチック‥
そのタイトルは、『お好み焼き』。
圧倒的な存在感を突きつけるこのオブジェを見て、何を感じるか、何を考えるか。それは、見る者それぞれに開かれています。ただ、何も感じない、何も考えないのは、不可能かもしれません。
とまどい、目を反らし、見つめ直し、惹き付けられ、眺め回したあとで、我に返ったとき、当たり前だった世界が、前と違って見え始める‥そんな力を、この作品は持っているようです。
生前、ある展覧会に作品を出品するにあたって、関係者に「素材という欄がありますが、何て書きましょうか?」と聞かれた彼は、「『社会』としておいてください」と答えたそうです。
小林清人氏は、今年の7月19日に発表された西日本版読売新聞の記事の中で、殿敷作品を見るという経験について、「『異物性』とは、現に存在するものに対するあからさまな抵抗の身振りが醸し出すものであって、それが既存の言語によって飼いならされたりすることから彼の作品を守っている。反原発やエコロジーといった個別の主題につなげて殿敷の仕事を解釈するあらゆる試みは短絡のそしりを免れない。」と書いています。
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