2016年11月29日火曜日

「ゴッホとゴーギャン展」と「いたずらの天才」



美術館の入り口でさんざん考えていましたが、美術館に入ってからもまた考えてしまいました。

人気の展覧会だから、せめて午前中には行こうと10時過ぎには着いていたのですが、すでに場内はごった返していました。

チケットはもちろん前もって買っておいたのですが、それでも入るまでちょっとした列に並ばなければなりませんでした。

私はつい、何十年も前に読んだ『いたずらの天才』という本の中の逸話を思い出さずにいられませんでした。

手元に本が無いので細かいところは違っているかもしれませんが、こんな話でした。

主人公はアメリカ人。絵が大好きで、自分自身画家のようなもの。

ある日彼の住むアメリカにゴッホ展がやってくる。彼は友人と一緒に出掛ける。

ところが超有名な画家の展覧会というわけで大勢の人が押し寄せ、作品を見るのもままならない。

主人公は友人に言う。

「ここに来ている人たちのほとんどは、実はゴッホの絵よりも彼の伝説の方に興味があるのさ。」

証明してやるよ、と言うと、主人公は粘土で耳のようなものを拵える。
そして「切り取られたゴッホの耳」という説明書きを添え、展覧会場の片隅に置く。

すると、殆どの来場者は「ゴッホの耳」の周りに集まり、彼と友人はゆっくりと絵を鑑賞することができたというのです。

ちょっと意地悪ですが。

私たちは展覧会に行くとき、どれほど作品自体と向き合っているでしょう。

今回の展覧会では、ゴッホとゴーギャンが書き残した言葉の引用も展示されていました。

その中で二人とも
「私たちの絵に語らせなければならない」
という意味のことを言っています。

当時の意味はおそらく、自分たちが目指す絵画のコンセプトを説明してわかってもらうのではなく、作品自体が語らなければならないということだったでしょう。

今では、この言葉は彼らが残した絵を見る私たちの方に突き刺さってくるようです。

悲劇の主人公というゴッホとゴーギャンの伝説から、彼らの絵を解放して見るのが本当なのではないか、と。


2016年11月25日金曜日

東京都立美術館の入り口で、上野動物園の塀を見ながらこう考えた...2



美術館や動物園への小中学生の入場料を無料のままにしておいた方がいいと思う理由は、他にもあります。

食べていくのがぎりぎりの子どもたちも、美術館や動物園に行けた方がいいでしょう?

(場合によっては交通費の方が高いわけで、その辺も考えなければなりませんが。)

トランプが選挙期間中にイスラム系難民の受け入れを制限すると公言していた時、カナダは迎え入れた難民を無料で美術館に招待したそうです。

無料で美術館に行った子どもや大人の中に、将来のゴッホやゴーギャンがいるかもしれません。
美術史を研究する人もいるかもしれないし、美術館のために働こうという人も出るかもしれません。
美術市場をけん引する人が現れるかもしれません。

無料で動物園に行った子どもたちの中から、人間と動物の共存を考える大人が出るでしょう。
未来のノーベル賞受賞者かもしれません。
NGOで活躍するかもしれません。

ちゃんと食べて、真っ当な暮らしをすることが先だけど。


2016年11月24日木曜日

東京都立美術館の入り口で、上野動物園の塀を見ながらこう考えた...

昨日の勤労感謝の日は、上野の東京都立美術館へゴッホとゴーギャン展を見に行きました。

ところで、美術館側から見た上野動物園の塀はなかなか素敵なデザインですね。





都立美術館は中学生まで入場無料。
そういえば、上野動物園に行った時も都内の小中学生は無料でした。

悪くない、と思いつつ、 子どもの貧困についてのニュースを思い出していました。
あの子たちが少しでも楽になるなら、みんな喜んで美術館や動物園で少しばかりのお金を払うだろう・・・

もちろん、有料にした場合、そのお金が他のことに使われていないことをちゃんと見せてもらう必要があります。

その辺があまりクリアーに見えないので、やっぱり今のところ、無料なものは無料なままにしておいてほしいな。
他に減らせるものはあるんだろうし。

親の代で貧乏だとしても、希望が見えればなんとかなるという面もあります。
ただ、格差があまりにも広がると、代々貧乏ということになりやすい。
日本だけではなく私が住んでいたフランスでも、格差は深刻になってきています。
高等教育を受ける子の親は、やはり高等教育を受けていた場合がほとんど。
逆もまたしかりです。
アメリカでも金持ちは代々金持ちで、貧乏人は代々貧乏だというケースが多くなっているそうです・・・

希望が具体的に見えない。

例えば、一生懸命勉強すれば将来良い地位に着けるとわかっていて、必要な教育を受ける機会に恵まれていれば、希望があります。

最初から機会に恵まれていなければ、「どうせやってもだめ」という絶望感を持つ人が増えてしまう。

社会の中には不満が広がるでしょう。
犯罪も増えるでしょう。

一生懸命やれば自分たちの将来が変わるかもしれないという具体的な希望。
漠然とした根拠の無い希望ではなく。
ものすごく運に恵まれた場合だけ成功するという希望ではなく。

格差を縮め、全ての子どもたちが真っ当な生活を送れるようにすること。
高等教育を受けられるようにすること。
それは当人たちだけではなく、社会全体にとっての急務では。

「ゴッホとゴーギャン展」に入りながら、そんなことを考えていました・・・





2016年11月16日水曜日

パリのコンサート・ホール、バタクラン、スティングで再び幕を開ける




1年前テロの標的となったバタクラン。

記念すべき再オープニングを飾ったのはスティングでした。

このコンサートでスティングは、"Inch'Allah" という曲を披露。

海を渡る難民の気持ちを歌ったものです。

「肩の上には子どもが眠っている・・・」

パリやベルギーを襲撃したテロリストの中には、難民の群れに紛れてヨーロッパに入った者がいました。

しかし、全ての難民を、テロリストを見るような目で見ることになったら、私たちの社会はぶっ壊れてしまうでしょう

歴史を紐解いてみれば、人々が大移動するのは今回が初めてではありません。

武力を持って他国を侵略する戦争を別にすれば、人々が大移動する時、そこにはいつも理由がありました。

今海を渡っている難民や移民も、自分たちが住んでいた所が平和だったら、そしてちゃんと食べていけたら、元いた場所を動かなかったでしょう。

一部のフランス人たちは、スティングの「インシャラー」を反フランスと決めつけています。

スティングにしてみれば、そんな反応も想定内だったのでは。

ところで、一年前に襲撃があった当夜、演奏していたのは、「イーグルス・オブ・デス・メタル」でした。

その後、ボーカルのジェス・ヒューズは、劇場で働いているイスラム系の人物がテロに加わっていたと言い出しました。
バタクランが再開する時は、ぜひ演奏したいと言っていたそうですが、今回は入場すら拒否されました。
今年夏にフランスで行われる音楽祭への参加も、キャンセルされたそうです。



2016年11月14日月曜日

パリ、テロから一年

昨日13日は、130人が犠牲になったパリのテロからちょうど1年目。

コンサートホール「バタクラン」やレピュブリック広場では、犠牲者を追悼しようと人々が集まりました。

バタクランでは、犠牲者90人の名前を刻んだ碑の除幕式がありました。



政治家主導の公式行事もありましたが、レピュブリック広場には自然発生的に人々が集まり、花を捧げました。

広場にはピアノもあり、犠牲者にオマージュを捧げる人々が、次々に様々な曲を弾いたそうです。

サン・マルタン運河では、日本の灯篭流しのように、カンテラを流す人々も。

テロの犠牲者を支えるNGOに寄付をする人も多かったようです。




ある男性は、犠牲となった妻が取り組んでいたことを、自分が続けていると語りました。
彼女はマダガスカルの子どもたちを助けるNGOをしていたそうです。
そのNGOは妻にとって子どものようなものだから、自分が後を引き継ぐのがとても大切なことだ、と。
 
至る所に、ラテン語のこのフレーズがみられました。

Fluctuat nec Megritur

パリ市のモットー。
波に襲われても沈まない。


2016年11月13日日曜日

トランプ勝利、フランス極右政党は歓迎

フランスの極右政党「国民戦線」の女性党首、マリーヌ・ルペンは、トランプの大統領選勝利を歓迎しているらしい。 

両者は似ていると言われているが、若干違いがあるだろう。

大した違いではないが・・・ 

スキャンダラスな暴言でネット上の話題をさらったトランプ。 

フランスの「国民戦線」の場合、暴言で注目を浴びたのは現党首の父親、ジャンマリ・ルペンの方で、1980年代のことだった。 

当時、ジャンマリ・ルペンはユダヤ人虐殺はでっち上げだとか、ガス室は存在しなかったとまで言っていた。 

娘、マリーヌ・ルペンは「家業」を継ぐと、戦略を変えた。
歴史上の事実を極端に否定するのはやめ、普通の人々に近寄りやすい雰囲気を作っていったのだ。 

彼女の主張を聞いた人々の中に、「え!けっこうまともなこと言ってるじゃない。父親とは違うね」という反応を示す人も出てきた。

「国民戦線」が支持を増やした理由は、社会的状況だけではなく、語り口を変えたからでもあった。 

とはいえ、娘マリーヌ・ルペンの方も、移民排斥、反イスラム、反ヨーロッパを主張していることに変わりない。

相も変わらず、共存ではなく排除を、開くことではなく閉じることを唱え、人々の間に憎しみをまき散らしてている。

2012年、そんな「国民戦線」の在り方を風刺したビデオクリップが流された。 

マリーヌ・ルペンらしき女性が、一人で鏡に向かって厚化粧を落としている。 

完全に化粧が落ちると、父ジャンマリ・ルペンの顔が現れるというものだった。



顔だけ変わっても、本質は変わらない・・・