2017年12月24日日曜日

フランス、ベルギー生活 - 引っ越し編



フランスやベルギーでは、引っ越すとき、何か物を配る必要はありません。
でも、挨拶は欠かせません。
ご近所さんといい関係を保つには、どうしたらいいでしょうか。


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2017年11月26日日曜日

教養は人を守るか - 「死にたい」と呟く人を


「教養」という言葉は私の中で、「ひけらかす」という言葉と対になっていた。
なんだかあまり重要なものだとは思えなかったのだ。
私だけではなく多くの人が、「教養」をひらひらした飾りもののように思っているのではないか。

しかしそれは、あの事件が起きるまでの話だった。
ツイッターに「死にたい」と書き込んだ人たちが詐欺師につけ入られ、殺されてしまったというあの事件。

死を考えることが、人間にはあるのだと思う。
ツイッターに書き込みをする人たちの中には、本当に死のうと思っているわけではない人たちも多いと聞いた。
誰かにわかってもらいたい、助けてもらいたいという気持ちで発信することもあるだろう。
思いの切実さはそれぞれだとしても、死を考えることが、人間にはあるのだろう。

ただ、死を考えたとき、何をするかは人それぞれである。
ツイッターに書き込む人もいれば、書き込まない人もいる。
書き込んだだけですっきりするのなら、それはそれでいいだろう。

書き込まない人の中には、何でも話せる人が身近にいるという、おそろしく恵まれた人もいるにちがいない。

そんなに恵まれてはいないが、自分がしっかりと掴まることのできる何かを持っている人もいる。

音楽によって力を得る人は多い。
ある人にとってはそれは詩かもしれないし、絵や彫刻かもしれない。
自分で創る人もいれば、鑑賞することによって体験する人もいる。

文学者や芸術家に自殺者が多いのは周知の事実だ。
あまりにも感覚が研ぎ澄まされていて繊細だから人生が耐え難くなるという場合もあるだろう。
あまりにも深いところまで追求し、掘り下げていくから、死に近づいてしまうということもあるかもしれない。

だからそんなものは役に立たないという意見もあるかもしれない。
しかしだからこそ、アーティストや文学者には、自殺したい人の気持ちがよくわかるということにもなる。
彼らは、「死にたい」と思った道を通りながら、一生懸命生きた人たち(または生きている人たち)だ。
たとえ最後に自殺してしまったとしても、死ぬまでは生き、作品を残した人たちである。

その作品に触れることは、彼らと語り合うことだ。
身近にわかってくれる人が一人もいなくても、自分をわかってくれる人を持つことである。

映画『エレファントマン』の中で、見世物になっているエレファントマンが、一冊の本を覚えるまで読んでいるという設定があった。
彼は獣のように檻の中に閉じ込められながら、毎日シェークスピアの言葉を呟いていたのである。
希望のない生活の中で、シェークスピアの言葉に掴まって生きていた。

もちろん、シェークスピアじゃなくていい。
自分を助けてくれるものが何なのかは、人によって違うのだから。

しっかりと掴まることのできる言葉や、音楽や、色彩やフォルムを持っている人は幸いだ。

もし教養という言葉の意味が、私たちを助けてくれる作品がこの世界にあると知っていること、だとしたら。
教養は私たちを守ってくれるものだと言える。

文学者や芸術家、童話作家、ミュージシャン、マンガ家たちが、命を懸けて残していってくれた作品。
私たちはそこから力を得て、もう少しばかり生きてみてもいいのではないか。

あるダンサーにこんな話を聞いたことがある。
講演後、年配の見知らぬ女性が楽屋を訪ねてきて言ったそうだ。
「あなたの踊りを見て、もう3日、生きる勇気を与えられました。」

もう少しばかり生きてみる間に、私たち自身も、何か良いものを世界に残すことができるかもしれない。
人は、一日、一日を生きることしかできないのだから。


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2017年11月25日土曜日

髪染め強要過去にも

持って生まれた髪が茶色っぽいことで学校から髪染めを強要されたという話。

そっくり同じような話を知人から聞いたことがある。

私の直接の知り合いではなく、知人のお友達の娘さんの話だった。

彼女の場合は、なんと学校で校長と担任が彼女の髪を染めたということ。

それ以前は皆勤賞を貰うくらいだったのに、ショックで学校に通えなくなってしまったという話だった。
確か、今から10年くらい前のことだった。

「どう思う?」
と聞かれて当時私が言ったのは、
「しっかりとお子さんに寄りそうこと。
彼女には何の非もないということをよく話してあげること。
親が彼女の味方だということを、彼女が疑いなく感じられるようにすること。
必要なら転校して環境を変えるのもアリ。」

親御さんは教育が専門の弁護士さんに相談したとのことだった。

その後今回のように大きなニュースにならなかったことを見ると、和解が成立したか、当事者であるお嬢さんが更に傷つくのを恐れ、裁判にはしなかったのだろう。

だとすると、似たような事件は他にも隠れているのではないか。

前世紀には、ご両親が国際結婚などで生まれつき髪が茶色っぽいお子さんが、学校で問題にならないよう髪を黒く染めているという話も聞いた。
同じ頃、英語がネイティヴだが、ネイティヴの発音で教科書を読むとからかわれるので、学校では日本人アクセントで読まなければならないという話も聞いた。

その後「国際化」が叫ばれるようになり、このような珍事は減ったのかと思っていた。

BBCのニュースで、サッカー選手を真似て髪を剃った男の子が停学をくらったというのがあって、日本では髪染め、イギリスでは髪型だね、なんて呑気な反応もあるようだが、これ、ちょっと違うんじゃないか。

問題になったイギリスの小学校では、規則で一定の髪形や髪染めが禁止されていたという。

イギリスの事例では、持って生まれた髪の色まで禁止されていたわけではない。

髪形や髪染めについて学校で規則を設けること自体がどうなのかは別にして、持って生まれた髪の色や肌の色を禁止されたわけではない。

髪を染めることを禁止するのではなく、髪染めを強要するというのは、「規則が厳しすぎる」というだけの問題ではない。

持って生まれた体の特徴を否定しておいて、何が表現力だ、何が読解力だ、何が作文力だ、何が今後は一人一人の考える力を大切にします、だ。

私はここで、日本の教育は最低だ、などと十把ひとからげに言うつもりもまたない。
髪染めの強要なんて想像もできない学校も、日本には多い。
生徒の人権や個性を尊重する教師や校長もいる。

ところで、私が知人に聞いた話もたまたまなのか、関西での出来事だった。

今回髪染めを強要した教師や校長を庇うつもりは全くないが、この事件の背後に何があるのかも、きちんと見る必要がある。

教師や校長の行動は、個人的な狂気に基づくだけなのか。
それとも、教師や校長自身、他の誰かから圧力を掛けられていたという事実はないか。

それを明らかにしなければ、同じような事件はまた起こってしまうだろう。


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2017年11月24日金曜日

文化の日に展覧会に行くなどというマトモなことをすると・・・

11月3日の文化の日は、展覧会に行ってしまいました。

たまたま友人に誘われ、その日が文化の日だということには気づきませんでした。
他の日でもよかったのですが、やはりオープニングに行った方が色々な方とお話もできるかな、と。

敬老の日に特に両親を敬うこともなく、体育の日に特にスポーツをするわけでもない私としては、まったく迂闊なことでした。

Higure 17-15 cas というそのギャラリーには、日暮里駅からも西日暮里駅からも行けるということで、千代田線の西日暮里から行こうと思ったのが間違いの始まりでした。

出口1から出れば良いということを突き止め、出口1という方角に向かいましたが、いつの間にか出口1という表示はなくなり、そこにあった改札にスイカをタッチすると、ブーという不快な音が。

自動チャージしているので料金が足りないはずはなく、近くの係員に確かめると、私はいつの間にかJRの改札に来ていたのです。

私が着いたホームは千代田線の西日暮里駅だったのですが。

不幸中の幸いは、子どもを連れてこなかったことでした。
「オープニングだからチップスがあるかもしれない」と言ったのですが、子どもは地球の向こう側の子とインターネット上で待ち合わせがあるようでした。
もし連れてきていたら、翌日から私の言うことを全く聞かなくなっていたでしょう。

千代田線の出口への行き方を教えてもらい、千代田線に着いてから係員に事情を説明し、再びホームを歩き、また別の係員に出口1はどこか訪ねると、

「駅から出たいんですか。」

と聞かれ、とても不思議な心持がしました。

もしかすると、永遠に駅から出られないのかもしれない。
これは永遠に駅から出られないというイベントであり、決して展覧会場に到達できないという展覧会なのかもしれないと思い始めたとき、小さな出口1が見つかり、私はそこから地上へ出たのでした。

そこからの道は実に単純でしたが、暗くなっていて人通りがまばらだったこともあり、本当に行きつけるのか、心もとない感じがしました。

しばらく行くと、塀に布袋様のような鮮やかな色の絵がいっぱい描いてあるところがあります。
まさかここではないだろうと思ったら、そこではありませんでした。
(それは日蓮宗のお寺さんのようでした)

そこからまたしばらく歩いて行くと、右側に人の溢れるギャラリーがありました。
入っていくと、チップスの他に、ソーセージや唐揚げまでありました。

私はそれらには手を付けず(すぐには)、誘ってくれた友人に挨拶をして、1階と2階の作品を見て回りました。

駒形克哉展。

2階のテンペラ画は、かなり好みでした。
『時計草の踊り』という作品名の「時計草」という言葉に私は参ってしまいました。
この言葉はアーティストの発明だろうか、それとも前に誰かが発明した言葉だろうか、この言葉を思いつかなかった私は迂闊だった(この言葉を知らなかった私は無教養だ)と思わずにいられませんでした。

後で調べたら、時計草という植物は本当にあるのですね!
現実は詩より詩的なり。

鑑賞と歓談が一通り落ち着いた頃、アーティストによる「羊羹切り」のパフォーマンスがありました。
ここで種明かしをすることは避けますが、展示されている作品とよく合っていました。

たまたま出会ったフランス人哲学者とのおしゃべりもおもしろく、久々に楽しいオープニングでした。

早く帰らなければならないのでそそくさと会場を後にした私は、帰りは日暮里駅からにした方がいいかもしれないと思いましたが、初めての道を駅まで間違えずに行けるかどうかも心配だったので、帰りも西日暮里駅に向かいました。

出るのは難しかったですが、入るのは簡単で、無事家に帰りつきました。
大変充実した外出でした。


2017年11月23日木曜日

オシドリ夫婦に聞いた - いい夫婦の秘訣二つ


昨日11月22日はいい夫婦の日でした。
私は両親にお団子を買ってきました。
父はあんこが好き。
母はみたらしが好き。
あんこがみたらしの方にちょっとでもついちゃったら、
逆にみたらしがあんこの方にちょっとでもついちゃったら、
大騒ぎになるぞー・・・
(いえ、冗談です)

いい夫婦というものは天然記念物のように珍しいものですが、想像上の動物ではありません。
その証拠に、私は何度か見たことがあります。

その一人、というかお二人は、大学の時の先生ご夫妻。
お子さんを亡くされるなど、厳しい試練を生き延びたご夫婦でした。

外から見たらわからないけどきっと色んなことがあったんだろうな、と思って、一度お聞きしたことがあります。
夫婦の仲を保つ秘訣がありますか、と。

先生はその時いくつかお話ししてくださいましたが、今でも私がよく覚えているのは次の二つです。

1 自分が悪かったと思ったら、即謝ること。
2 相手の家族の悪口を言わないこと。

私の質問にすぐ答えてくださったところを見ると、先生は意識してこの2つを実践なさっていたのでしょう。
ということはまた、先生にとっても、この二つを守ることが必ずしも簡単ではなかったことを物語っています。

世間には、外では大変立派な人に見えるけれど、最も親しい人に思いやりを見せることができない人もいます。

逆に、家庭では良き親、良き夫あるいは妻でありながら、家族以外の人や社会に対して犯罪を犯してしまうというケースもあります。

人間て複雑。

2017年11月4日土曜日

フラリーマンも使いよう


フラリーマンという新しい人種が脚光を浴び、一部にこれを批判する動きもある。

仕事が早く終わったら、真っ直ぐ帰って家事を手伝うべきだという主張である。

私は、フラリーするのは、やり様によっては家族のためにもなると思う。

もちろん、女性の方もフラリーしたければ出来るというのが前提だ。 

フラリーするのは遅くまで飲んでいるのとは違うし、 日曜日に接待ゴルフをするのとも違う。

職場と自宅とを真っ直ぐ往復する代わりに、ちょっと道草をするということだろう。

自分の話をしよう。

子どもがまだ小さい時、フランス人の夫は仕事から真っ直ぐ帰る人だった。

そして、仕事のストレスやなんかも全部、真っ直ぐ持って帰ってくれた。

出かける前も、いつもピリピリしていた。

さらに、子育てに「積極的に」参加し、何にでも口を出した。

 元々神経質なタイプなので、どんなに苦痛だったかはご想像にお任せしよう。

途中でちょっと寄り道して、少しは良い機嫌で帰ってくれたらどんなにいいかと思ったものだ。

しかし夫は、そんな出費は無駄遣いだと思っていた。

自営業なので、昼間もいることが多かった。

赤ん坊が自分で食べようとしてこぼそうものなら大騒ぎをするので、子どもの自主性を育てようと思っていた私としては、やりにくかった。

ある日、子どものおしめがもう少しで取れようとしていたときのことである。

間の悪いことに、夫がいる時に子どもが粗相をしてしまった。

「俺が片付ける!」
夫は叫んだ。
さらに、子どもに向かって
「お前はまだおしめが取れる準備なんて出来ていないんだ!!!」

子どもがおしめを卒業するまでに、それから多くの月日が流れることになったのは言うまでもない。

数ヶ月経った頃、私は子どもに言った。

「あのね、パパはおしめが取れたら喜ぶよ。」
すると、子どもは答えたのである。
「違うよ。パパはね、僕がおしめ取るのがイヤなの。」 

私は子どもと話し続け、なんとか「誤解」は解けたようだった。
それからしばらくして、おしめは取れたから。

今私は仕事と家族のことで、良いバランスを探して四苦八苦しているのだが、仕事でストレスが多かった時は、ちょっと座って一人でお茶を飲んでから帰るようにしている。

1分も惜しんで必死で家に帰ってくると、家族につまらないことで当たってしまう自分に気づいたからだ。

夫も妻も、父親も母親も、聖人でないならば、自分の時間を持つことに罪悪感を感じる必要はないと思う。
もちろん、いつもそうできるわけではない。
お互い相手が一息つけるよう、調整するのも必要だ。

ただ、自分に全く余裕がなければ、家族にとってよくないということは知っておくべきだろう。
相手がホッと一息ついてくれることが、自分にとってもいいことだということも。

2017年11月3日金曜日

子どもの自殺増加、日産、スバル不祥事、数字が語るのは何?



かつてソ連の崩壊を予告したフランスの学者、エマニュエル・トッドは、何を根拠として正確に推測することだできたのだろうか。

その一つは乳児死亡率だったと言う。

当時のソ連政府は多くの数字を偽っていたが、当初、乳児死亡率は隠さないでもいいと考えていたようだ。
直接国力に繋がる数字だと思われていなかったのだろう。

政府も途中でヤバいと気づいたのか、乳児死亡率を公表しなくなる。
そこで新ためて、あの数字は本当だったのだとドットは思ったそうだ。

乳児死亡率は、実は社会情勢全般に敏感に反応することを彼は知っていた。
この数字と、その他の断片的な情報から、彼はソ連の崩壊を予測することができたそうだ。

ドットの考え方を、先週の様々な国内ニュースに当てはめるとどうなるんだろう、と思う。
選挙が終わって数日経ってから発表されたのは、いじめの増加や子どもの自殺率の増加。

数字の上でいじめが増加していることは、調査の仕方にもよるかもしれない。
これまでいじめとして認定されなかったことが、いじめと認定されるようになったとしたら、かえって良いことかもしれない。
「いじめられた子がいじめられたと感じればそれはいじめだ」とする教育現場も現れている。

しかし、自殺率の場合はそうはいかない。
自殺は自殺である。

これに、大企業の不祥事が加わる。
これまでも大企業の不祥事はいくらでもあったが、今回のはモノづくりの根幹に関わるような不祥事である。
しかも、日本の代表的な産業で。

もちろん、日本が旧ソ連のような崩壊の仕方をするはずはない。
今のところ数字が明らかになるだけどんなにマシなことか。

選挙になると、与党は現政権の成果を強調し、野党は欠陥を強調する。
しかし、喧しい言葉の向こうに厳然としてあるのは、恐ろしい数字である。

株価という数字が上がったからといって、喜んでいていいのだろうか。
トランプ大統領が当選した翌朝も、アメリカで株価は上がった。

2017年11月2日木曜日

選挙戦の結果への海外の反応 - インド



前回紹介したフィガロ紙の記事では、日本に来たばかりのインド人ジャーナリストの感想も載っていました。

「私の国では選挙戦は何カ月も続きます。
ここでは3週間でした。
その間に一つの政党が無くなり、新しいのが二つ生まれ、野党は混乱しました。
政界が現実と結びつかないまま、世論調査の結果は1日おきに変わります。」

いつもそうだというわけではないんですけどォ・・・

そういえば、選挙戦の長さも国によって異なります。

フィガロ紙のフランスでは、大統領選の場合、1年前の月初めの日となっているそうです。

フランスは国民が直接大統領を選ぶ、いわゆる直接民主主義。
日本とは全く異なったシステムです。

比較的日本と似ているイギリスの場合はどうでしょうか。

「なぜイギリスの選挙戦はたった60日なの?」
という記事を見つけました。

Quoraという「知恵袋」のようなサイトで、質問したのは恐らくアメリカ人でしょう。

答えているのはイギリス人で、イギリスでは国民が直接首相を選ぶのではないということ、
選挙で選ばれるのは両院の議員のみで、勝った政党のリーダーが首相となること、
誰がどの党のリーダーかみんな普段から知っているということ
などを理由に挙げています。

「知恵袋」も時々間違いなどありますし、これが唯一の答えではないでしょう。

それにしても、「たった」60日かぁ、と思うのは私だけでしょうか。

2017年10月26日木曜日

選挙戦の結果への海外の反応 - フランス -


『リベラルな秋風、日本選挙戦に吹く』

という見出しで、フィガロ紙は選挙戦の結果を伝えています。

フィガロはルモンドと並び称されるフランス二大新聞の一つ。
論調は中道右派、または右派とされています。

「安倍氏はますます選挙民の信頼を失っている。人々は粘着テープのように彼にまとわりつくえこひいきのスキャンダルを許してはいない。」

ね、ねんちゃくテープ?

この言葉、sparadrap は絆創膏と訳すこともできますが、オンラインのフランス語辞書には載っていませんでした。
現在、日常会話のフランス語で絆創膏と言いたいときはpansement という言葉を使うのが普通です。

絆創膏のイメージで記者がこの言葉を使ったとすると、 キズの上に絆創膏が貼ってある図でしょうか。

あまりお目にかからない単語とはいえ、文豪ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル(ああ無情)』にも出てきます。

『包帯を巻くのは面倒で難しいことだった。sparadrapで布や器具を留めるなどということは、当時まだ誰も考えついていなかった。』

貧富の差が激しかった時代に、政治家としてのユーゴーは福祉や教育改革、死刑廃止を訴えていました。
彼は次第に独裁化していくナポレオンに反対。
弾圧されて亡命を余儀なくされたこと等よく知られていますね。

さて、選挙民の怒りは社会に、政治にどのような絆創膏というか、治癒をもたらすのでしょうか。

2017年10月21日土曜日

ノーベル文学賞を受賞した作家にはどんな共通点があるか


ダイナマイトの発明によって巨万の富を得たノーベル。

彼の兄が亡くなったとき、ノーベル自身がが亡くなったと勘違いした新聞は「死の商人、死す」と書き立てたという。

この時から、彼は自分が死後どのように記憶されるかということについて考えるようになったそうだ。

だから、ノーベル賞には平和賞がある。

ノーベルは文学が好きで、自分でも詩を書いていた。
外国語に堪能であったことから、趣味で文学を翻訳することもあったという。
文学も科学と同じように人類の発展に寄与すると信じたノーベルは、「理想的な方向性の」文学にも賞を授与するようにと書き残した。

ところで、戦後のヨーロッパの文学者たちは、廃墟から出発した点で日本と同じだが、「あんなことをしでかした人類に、これからも文学が可能なのか。」と問うたという。

「あの戦争」の後で、それ以前と同じ意識では書き続けられないことは明白だったのだ。

ノーベル文学賞を受賞した作家たちの名前を見ていると、「歴史的な視座」という言葉が浮かんでくる。

詩人、小説家、戯曲家、哲学者、そしてボブ・ディランという現代の吟遊詩人。
ジャンルは様々だし、スタイルも様々。
前衛的な作家もいればそうでない作家もいる。
共通点はもしかすると、文学的に優れていること+歴史的な視座を持って活動したことではないか。

「社会派」とは言えず、ごく個人的な作品を書いているように見えるモディアノにしても、あの戦争、記憶、曖昧なアイデンティティといったテーマが見え隠れする。

歴史そのものを作品に盛り込むか否かということではなく、歴史を見据える眼差しが感じられるかどうか。

そう考えると、村上春樹氏が受賞しない理由もわかる気がする。

では、しかと歴史を見据え、しかもフランス文学史に革命を起こしたデュラスのような作家はなぜ受賞しなかったのか。

ノーベル文学賞のもう一つの条件は、性そのものをテーマとしないことかもしれない。

小説に性的な描写はつきものだが、性そのものをテーマとしてきた作家は受賞していないように思える。

作家や芸術家は、賞を目指して活動するものではなく、ひたすら「自分の仕事」をするものだ。
その結果として賞を取ることもある。
賞がこういう傾向だからこういう風に書こうというものでもないだろう。

ノーベル賞は重みがある。
 選ぶ方も大変だろうと思う。

2017年10月15日日曜日

ノーベル文学賞と村上春樹



ノーベル賞の季節が近づくと、毎年のように「今年は村上春樹が受賞するだろうか」ということが話題になる。

自分が好きな作家が世界最高の栄誉を受けたら嬉しい、という気持ちはもちろん多くの人が持っているだろう。

でも、それがそんなに大切なことなのだろうか。

ファンの評価はおそらく、ノーベル賞を受けようが受けまいが変わらないだろう。
ファンではない人で権威主義的な人なら、ノーベル賞を取ったということで評価を変える人もいるだろう。
村上春樹の文学を認めない人の中には、ノーベル賞を取ったからといって評価を変えない人も大勢いるだろう。

村上春樹の作品は、すでに多くの言語に翻訳され、世界中にファンがいる。

ノーベル文学賞を取ったから作品の質が上がるわけでもないし、取らないから下がるわけでもない。

過去の作家たちを振り返ってみれば、すばらしい作家でもノーベル賞を取らなかった人たちが多いことに気づくだろう。

トルーマン・カポーティもマルグリット・デュラスも取っていない。
なんと、ジェームズ・ジョイスも取っていない!
(最もジョイスの場合は、もう少し長生きすれば取っていただろうと思われる。
ノーベル賞は亡くなった人には授与されないから。)

一方、後から考えると「なんでこの人が取ったんだろう?」と思う作家もいる。

アメリカ人の友人で大変な読書家がいるが、彼は自国の劇作家、ユージン・オニールがなぜノーベル賞を取ったかわからないと言っていた。
「そりゃもちろん、いい作家だよ。でも、ノーベル賞かなぁ・・・」

2014年にフランスのパトリック・モディアノが受賞した時も、多くのフランス人の反応は
「えー、本当?!モディアノが!?」
というもので、
「フランス人が取って嬉しい。」
という人はいなかった。
まぁ、どこかにいたにはちがいないが、大方の反応ではなかった。

驚いた人々の全てがモディアノを評価していなかったというわけではない。
ノーベル賞を取るタイプの作家だとは思っていなかったということだろう。
モディアノにも熱烈なファンがいる。
この点で村上春樹に劣るわけではない。

ちなみに、モディアノはノーベル賞以前にフランスの芥川賞とも言うべきゴンクール賞を受賞しているが、ゴンクール賞とノーベル賞を共に受賞した最初の作家となった。

日本でも有名なアルベール・カミュはノーベル賞は受賞しているが、ゴンクール賞は受賞していない。

つまり、ゴンクール賞の基準とノーベル賞の基準は違うのだ。

ノーベル賞の審査が、好みとか気分で決められるはずはない。
ノーベル文学賞にはノーベル文学賞の、しっかりとした基準があるにちがいない。
そしてその基準は、昨年ボブ・ディランを選んで世間を驚かせた時も、しっかりと働いていたと思われる。

それはどんな基準だろう。

2017年10月14日土曜日

ノーベル文学賞2017年、カズオ・イシグロ氏はイギリスの作家


今年のノーベル文学賞は、ヨーロッパでも人気の高いカズオ・イシグロ氏に決まった。

日本のニュースを見ていると、「日系、日系」と言って騒いでいる。

彼は長崎に生まれ、5歳の時イギリスに渡ったのだから、日系には違いない。

しかし、彼の文学の言語は英語であり、教育を受けたのもイギリスで、作家となる前に働いていたのもイギリスである。

小説家としてのカズオ・イシグロが作られたのはイギリスであり、英語によってなのだ。

もちろん、日本語の感覚や5歳までの記憶も彼の一部を成している要素には違いないだろう。

しかし!
昨日のニュースでは、彼の思春期を知る人や、大学の先生、作家としての形成期に関するインタビュー等は一つもなかった。
これから出てくるとは思うが、当日にイギリスで周囲の人からインタビューを取ることがそんなに大変なことなのだろうか。
英語の通訳ならいくらでもいるのに。

ヨーロッパに住んでいると、様々なバックグラウンドを持った人々と出会う。
両親や祖父母がアジアやアフリカから来たという人も多い。
親の片方が外国人だったという人も珍しくない。
どんなバックグラウンドを持っていても、今フランスに住んでいて、フランス国籍を持っているなら、彼らは皆フランス人だ。
国籍を複数持っている人も普通にいる。
親の一人が外国人の場合など、二つ国籍を持つのが一般的だ。
どちらか片方を選ばされるということはない。
どちらもその人の一部なのだから。

カズオ・イシグロさんは日系であり、同時にイギリス人なのだ。
彼の生活、仕事、6歳以降の自己形成の場は、イギリスである。

日系、日系と言って、イギリスという言葉があまりにも少ないニュースに違和感を覚える。

彼は、長崎出身の、イギリスの作家だと言えば、より正確なのかもしれない。

試しに第三国であるフランスの新聞の記事を見てみると、フランスの二大新聞の一つ、ルモンドの見出しは

「ノーベル文学賞、イギリスの作家カズオ・イシグロ氏に」

となっている。

もう一つのル・フィガロ紙は

「2017年ノーベル文学賞、カズオ・イシグロ氏に嬉しい驚き」

という見出しの後で、「栄誉ある賞はイギリスの作家カズオ・イシグロ氏に授与されることが決まった」
と続けている。

最後に念のため付け加えれば、栄誉を受けたのは日本でもなければイギリスでもなく、作家本人である。

(写真はノーベル賞授与式後に晩餐会が開かれるストックホルムの市庁舎)

2017年10月6日金曜日

日本のいじめとフランスのいじめはどう違うか -4-


自分よりずっと体の大きな子どもに暴力を振るわれるのは、どんなにか恐ろしいだろう。
そんなことは絶対に起こらないようにしてもらいたい。
国際調査で「いじめられたことがある」と答えたフランスの子どもの割合が、日本より多いのも不思議はない。

それなのに、日本の方がいじめによって自殺してしまう子どもの割合が多いのは、どうしてだろう。

いじめられる子の立場に立って、できる限り想像してみよう。

まず、フランスなどの伝統的ないじめ。
フランスにも他のタイプのいじめもあるが、とりあえず、こんな状況を考えてみよう。
自分より圧倒的に体力に勝る大きな子どもにぶたれたとする。
痛い。
怖い。
泣くかもしれない。
力の差が明らかだから、仲間は助けてくれない。

でも、仲間は見ている。
彼らは同情するだろう。
「大丈夫?」と後で慰めてくれるかもしれない。
「怖いね。」「ひどい奴だね。」と言い合うかもしれない。
先生か親に知られれば、自分をいじめた者が罰せられるのは明らかだ。

次に、よく取り上げられる日本の学校でのいじめ。
あなたをいじめるのは、仲間であるはずの同じクラスの子どもたちだ。
彼らはあなたには何の価値もないと言う。
ほかの全員がその通りだと言う。
誰もあなたの側に立たない。
誰も慰めてくれない。
味方は一人もいない。
あなたには居場所がない。
それが毎日続くと、自分は本当にダメな奴なのかもしれないと洗脳され始める。
家に帰れば味方がいるかもしれないが、平日、起きている時間の大半を過ごすのは、家ではなく学校である。

一人でも味方をしてくれる人がいれば、人間は生きていけるのかもしれない。
全ての人があなたのことをウザイと決めたとき、人は本当に追い詰められるのかもしれない。

2017年10月4日水曜日

日本のいじめとフランスのいじめはどう違うか -3-



日本を含め、アジア・アフリカでは、年上の子が年下の子の世話をするようしつけられていることが多い。
それが高じると上の子に不満が溜まってしまうこともあり、やりすぎは考え物である。
ただ、そのおかげもあってか、体の大きな小学生が幼い幼稚園児を殴るなどのいじめはあまりない。
ないとは言わないが、教育現場でそのようないじめが起こるのは珍しい。
フランスでは、力の勝る年上の子が年下の子に暴力をふるうのは、よくある話だ。

幼稚園と小学校が一貫校となっているところも多い。
かつては休み時間に同じ校庭で3歳から12歳までの子が遊んでいたので、小さな子どもたちにとって、幼稚園に行くというのは厳しい試練だったらしい。

「ぼくには大きいお兄ちゃんがいる」と言って年上の子からのいじめを逃れようとした子もいると聞いた。

フランス人の夫は、子どものころ妹や弟をかばうのに忙しく、休み時間に遊んだ覚えがないという。

現在では、幼稚園児が遊ぶスペースと大きい子たちが遊ぶスペースを分けているところが多い。

私たちが子どものために幼稚園を選んでいた時も、宣伝文句として、「小さなお子さんたちの遊び場には大きい子どもたちは入れませんから安心ですよ。」と言われた。

私には最初、何のことだか分からなかったのだが。 

フランス人である私の姪は、校庭で大きな子にぶつかられ、腕の骨を折ったことがあった。
「わざとではなかった」という報告だった。
母親である義妹はその説明を信じていたようだったが、私の夫はわざといじめたに違いないと思っているようだった。
自分自身の厳しい子ども時代を思い出してのことだろう。
どちらが真実かは、わからない。

2017年10月2日月曜日

日本のいじめとフランスのいじめはどう違うか -2-


前回の記事で、「いじめられたことがある」と答えた子の割合が日本よりフランスの方が多いにもかかわらず、自殺にまで至るケースは日本の方が多いと書いた。

日本で自殺が多いという話題になると、決まって出てくるのが自殺観の違いである。

キリスト教の国では自殺は罪と見做されるが、日本ではそうではないから踏み切りやすいのだという。

それも少しはあるかもしれない。
かつてヨーロッパでは、自殺はタブーであったため、誰かが自殺しても家族が事実を隠すこともあった。

今は、隠すことは少ない。

数年前のことだが、技術者が上司のパワハラを苦に飛び降り自殺をしたとニュースで聞いた。

同様の事件は日本よりはずっと少ないようである。
しかし、人は本当に追い詰められたとき、文化の違いに関わらず、死んでしまうことがあるのだ。

だとすれば、日本にいじめを苦に自殺する子どもが特に多いということは、日本には本当に子どもを追い詰めてしまう類のいじめが多いということだ。
同じいじめでも、逃げ場の無い状況になってしまうことが多いということだ。

良いいじめと悪いいじめなどがあるはずはない。
いじめはどれも過酷だ。
それでも、生き延びれば人生を取り戻せる可能性がある。

フランスで子育てをした私は、フランスでもいじめが恒常化していることを知っている。
そしてそれは新しいことではなく、何世代にもわたって続いてきたことだそうだ。

それでも、自殺にまで至るケースが少ないのはなぜか。
私にはいくつか思い当たることがある。

2017年9月30日土曜日

日本のいじめとフランスのいじめはどう違うか -1-

よく日本ではいじめがある、とよく言う。

そしてそれは本当だ。

では他の国にはいじめはないかというと、他の国にもいじめはある。

ユニセフの「イノチェンティレポートカード11 先進国における子どもの幸福度」という調査を見ていて、ちょっと驚いたことがある。

「過去数カ月間に学校で1回以上いじめられたと答えた11歳、13歳、15歳の子どもの割合」というタイトルのグラフがある。

 このグラフでは、日本は27.4%となっている。
比較対象となっている30カ国の中で、この数字は12位。
アメリカは日本と殆ど同じで27.5%。
ドイツ、フィンランドは何と日本より多く、それぞれ30%と30.1%。
フランス、34%、ベルギー37.7%である。

日本の子どもたちにした質問と、他の国の子どもたちにした質問はちょっと違っているようだし、 調査の仕方によっては違う数字も出てくるだろう。

フランスで子育てをした私にとって、「いじめられたことがある」と答えたフランスの子どもの割合が日本より多いのは、別に驚くことではなかった。
 
私が改めてハッとしたのは、いじめられたことがある子の割合と自殺数のギャップである。

「いじめられたことがある」と答えた子はフランスの方が少し多いが、自殺にまで至るケースは、ニュースを見ているかぎり、日本の方がずっと多い。

これはどうしてなのか。

自殺さえしなければいいというものではない。
いじめられてトラウマを背負ってしまうことも少なくない。

ただ、取り返しがつかなくなるという意味で、とりあえずは自殺だけでも無くしたい。
だから、自殺するほど追い詰められてしまう苛烈な状況を無くしたい。

これから数回にわたって、私が自分の子どもを通して体験したフランスやベルギーのいじめと日本のいじめの違いについて、まとめていこうと思う。




2017年9月10日日曜日

いじめられている人へそしていじめている人へ

いじめられている人へ



学校に行くのは大変なことだ。
生きるのは、大変なことだ。

でも、今あなたが感じている大変さは、ずうっと、永遠に続くわけでもない。
なんとか、時をやり過ごして、生き延びてください。

学校だけが世界じゃない。
世界は、もっとずうっと広く、学校の外にもある。

時は、今だけではない。
今をやりすごせば、別の時が来る。
 
つらすぎる時は、生き延びるだけでもいいから。
1日1日を、ただ、生き延びるだけでもいいから。
1分1分を、ただ生き延びるだけでいいから。

そうすれば、何とかなるから。


いじめている人へ


ムシャクシャしていて、イライラしていて、他の子をいじめても、あなたは幸せになれるわけじゃない。
どんどん自分が嫌いになっていくばかり。
 
いじめられないためにいじめてる、そう思っているかもしれない。
でも、そんな記憶は、大人になってからも消えるもんじゃない。
 
このまま大人になるつもりはない、いつかは変わるつもり。
 
で、いつ?

2017年7月23日日曜日

水不足の時 - フランスと日本



関東地方は水不足ということで、天気予報を見ていて気が付いたことがある。
花にたっぷり水をやりましょう!と言っていたからだ。

もうかなり前のことになるが、フランス南西部で語学の研修を受けていたときのこと。
暑い夏で、眩いばかりの太陽の下、私たちは暇さえあると海に飛び込んでいた。

ある日私は、ホームステイ先の奥様に、ちょっと話があるんだけど、と言われた。
「実はこの地方は今水不足なんです。」

当時私は新聞が読めるほどフランス語ができなかったし、今のようにインターネットで情報が発信されている時代でもなく、不覚にも、彼女に言われるまで水不足について知らなかった。

私が風呂場でお湯を使いすぎる、というのが彼女の言いたいことだった。

私はあやまり、それからは水やお湯の使い方にとても気を付けるようになった。

その時彼女が言ったのは、それだけではない。

住人は庭に水をやるのも控え、洗車もしないということだった。

「飲み水がなくなったら困るし、農家の水が足りなくなったら大変でしょう?
車は埃だらけ、花や芝生も枯れてしまった。
でも、こんな時にきれいな車で走ったり、庭の花が生き生きしてるのは恥ずかしいこと。」

庭で花を作るのは趣味で、それが仕事の農家とは違う。
それに、水不足の上、作物が取れなくて食べ物が不足したり、値段が跳ね上がったら皆困る。

車はともかく、植物は生き物だ。
車は後で洗うこともできるが、一度死んでしまった木や草は生き返らないかもしれない。
植物が生きていれば虫も生き、それをついばむ鳥も生きる。
(殺虫剤を控えていればの話だが)

水不足で花が枯れたらかわいそうだと思う日本。
水不足だから自分の庭は犠牲にしなければと思うフランス。

どちらがいいのでもどちらが悪いのでもない。

おそらく、水不足の度合いも違うのかもしれない。
日本では、水不足といいながらも、庭に撒くぐらいの水はあるのかもしれない。
乾燥のために山火事が起こることさえある南仏と比べることはできないだろう。

それでも、水に対する危機感の違いが現れていると考えることもできる。

よく言われることだが、一般的に水が豊富な日本と、世界のそうでない地域とでは、水に関する感覚がずいぶんと違う。

とはいえ、今年は日本も九州北部で水田が干上がっているという。
深刻な事態となってしまった。
 
関東地方も、洗車ぐらいは控えた方がいいのかもしれない。
今年の夏、車は埃だらけがかっこいいということにしては。

2017年7月22日土曜日

ポピュリズムはなぜ批判されるのか


大衆に人気があることは悪いことではない。

全てのアートを全ての人が理解する必要はないけれど、政治は基本的に全ての人のためのものだ。
できるだけ多くの人に分かるよう説明するのは政治家の義務だろう。

ただ、複雑な問題を分かりやすく解き明かすのと、複雑な問題を単純化してしまうのは、全く別のことだ。
分かりやすくなったところで、問題の本質が変わってしまったら、説明したことにはならない。

政治的な意図をもってつく嘘をデマゴギーという。

アメリカのガーディアン紙によれば、アメリカの歴史の中では、ポピュリズム的な傾向がデマゴギーへとスライドしたことが多く、民主党も共和党もポピュリズムにウンザリしていたという。

そこに新たなポピュリスト、トランプが現れ、大統領となってしまったのだった。

ポピュリズムの特徴の一つは、本当に可能で、しかも実効のある政策を打ち出せない点にある。

問題を単純化して敵を作ると大衆は盛り上がるのだが、その先が無い。

もう一つの問題点は、常にマイノリティーが犠牲になるという点だ。
「私たち」の同質な集団が、「私たち」とは異なるものを排除しようとする。

そして、トランプ大統領がメディアと対立しているように、あらゆる社会的な制度や団体への不信感を掻き立てる。
軍隊と警察だけはなぜか別で、この二つだけはポピュリズムに祭り上げられる傾向にある。

このような傾向はポピュリズムが現われる度に見られたことで、だから識者はポピュリズムを警戒するというわけだ。

2017年7月15日土曜日

劉氏死去に思う

ノーベル平和賞受賞者にして、中国民主化運動のリーダーである劉氏が亡くなった。

彼は中国の大学で文学の博士号を取った後、ヨーロッパやアメリカの大学に客員教授として招かれた。

1989年、学生による民主化要求の波が高まった時も、コロンビア大学にいたそうだ。

もしあの時中国に帰らなかったら、彼は投獄されることはなかっただろう。
国外から発言を続け、平穏な人生を送ることもできたはず。

それでも彼は帰った。

天安門事件の後、仲間の多くは亡命して国外で活動を続けた。
それも大切なことだと思う。 

しかし彼は残った。

大人しく黙るためではなく、批判を続けるために。

批判を封じ込める所に民主主義はない。

そして民主主義は、一度手に入れたら二度と消えることのない当たり前のことなんかじゃない。

あたりまえのことなんて、何一つない。

今、私たちには発言する権利がある。
批判する自由もある。

批判とは創造的なものである。

CNNのインタビューに答え、彼の妻は次のように答えている。

「彼の20年に渡る闘いによって、中国社会は変わらなかった。
でも、彼の考え方に影響を受ける人は増えたし、権力を恐れない人も増えた。」

言論の自由だの三権分立だの、日本では一応法律で保障されている。
けれどそれで十分ではない。
それは当たり前のことではない。
形骸化させないよう、常に気をつけていなければならないのだろう。

中国の故事、荘王の話にある通り、本当に国を思う人は、権力がまずいことをしていると思えば批判する。
自分が可愛いだけの人はおもねる。
その権力が永遠に続くとでも思っているかのように。

CNNの記事はこちら
http://edition.cnn.com/2017/07/13/asia/china-liu-xiaobo/index.html

2017年7月10日月曜日

ヒアリ騒動に思うこと - 本当の対策とは

日本でヒアリに刺される可能性は何パーセントくらいなのか。
そのうち、死に至る可能性は何パーセントくらいなのか。

今のところは、高いとはいえない。

ヒアリ騒動が大げさだというつもりは全くない。
正しく怖がろうと思っているだけ。 

ちなみに、ヒアリが定着してしまっているアメリカでは、年間1000万人以上の人が刺されるという。
そのうち、アレルギーで死亡するのは約100人ということだ。

ヒアリの見分け方は、赤っぽいという色だけでは難しいと思う。
光の加減によっては、普通私たちが知っているアリもかなり赤く見えることがあるからだ。
分かりやすいのは、背中に小さなコブが二つあること。

お尻の前に小さい玉が二つあるのが見える。

疑わしいアリを見つけたら、できれば写真を撮って、環境省の地方環境事務所
http://www.env.go.jp/region/index.html
に連絡するようにと言われている。

熱湯をかけるとか、殺虫剤で駆除できるそうだ。

もし刺されてしまったら?

きっとスズメバチ対策に準じるのでは、 と思っていたら、実際、スズメバチとヒアリは、生物学的に近いとのこと。
というか、そもそもスズメバチとアリ一般が近いのだそうだ。

だとすれば、刺された直後、安静にすること。
アレルギー反応を起こさないために、抗ヒスタミン剤を取るのもいいのかな?

呼吸困難、意識の混乱などがあったら、一刻も早く救急車を呼んだ方がいいらしい。

ここで思うのは、ヒアリ騒動にパニクって、一般のアリまでも恐れてしまう人が出るかもしれない、ということ。

ヒアリは、在来種が栄えているところでは定着しにくいようだ。
ということは、私たちは今まで以上に身近なアリたちを大事にしなけれなならない。

ヒアリは蟻塚を作る。
在来種のアリの巣は、穴の周りに掘り出した土がこんもり盛り上がっている程度。

ただ、ヒアリも地下に深い巣を作ることもあるそうだ。
私たちは、これからいろいろ情報を集め、勉強しなければならないのだろう。

いずれにしても、ヒアリに限らず暑い国の危険生物が日本に増えているのは、温暖化の影響でもあるわけだ。
本当の対策とは、温暖化を食い止めることでもある。

この構図に似ている現象がある。

イスラム過激派を怖れて一般のイスラム教徒まで差別したり、北朝鮮の政府がやっていることに怒って、日本国内の韓国、朝鮮系の人々に八つ当たりするような態度。

それって、ヒアリを恐れて、私たちを助けてくれるはずの一般のアリを敵に回すことに似てないか。

何が私たちの社会の将来にとって良いことなのか、私たちは情報を集め、よおく考えなければならないのだろう。
 

2017年7月8日土曜日

ポピュリズムとは

最近よく耳にする言葉、ポピュリズム、ポピュリスト。

今に始まったものではありません。 
言葉の起源は古代ローマだと言われています。
ただ、古代の民主主義で使われた意味と現在使われている意味は、同じではないでしょう。

近代以降では、アメリカで1892年にPeople's party (Populistsという言い方方が有名です)というものができました。
彼らの主張は、メディアは偏っているとか、新たな移民が国をダメにしているとか、トランプ氏と似たようなものだったようです。

最近話題になったポピュリズムとしては、イギリスのEU離脱、アメリカのトランプ大統領当選、フランスの極右政党である国民戦線、日本の維新の会、そして小池都知事に率いられた都民ファーストの会などが挙げられます。

ポピュリストが自分で自分のことポピュリストだということはありません。
また、極右政党だけでもないのでわかりにくいところです。

 Daniele Albertazzi と Duncan McDonnell の定義はわりと明解で、ウィキにも紹介されています。
どういうことかというと、

ポピュリストは、まず対立構造を作る。
彼らによれば、一方には純粋なる良き市民がいる。
(この良き市民というものは、多様なものではなく同じような人々としてみなされる。)
もう一方には、敵として、エリート層や職業政治家、そして「私たち」とは異なる危険な「他者」たちがいる。
この敵たちが、主権者である良き民の権利や価値観、富やアイデンティティを奪っている、というのが彼らの主張。

なるほど、この定義なら、右も左も関係なくポピュリズムが現れるということがよくわかりますね。

東京都議選を伝える海外メディア - アメリカabc

アメリカabcニュースは6月30日付で、既に次のように伝えていました。

「ポピュリストの都知事、小池百合子氏が立ち上げた新党が大勝利して彼女の基盤を固め、次期首相候補になるとの予想も」

改革のイメージと、男社会だった都議会への対決姿勢が人気の理由と分析。

都議会の自民党とは喧嘩をしているが、安倍首相とは関係を保っていることを挙げ、国政への復活を視野に入れている、

独自の東京ファーストを広げてジャパン・ファーストとし、国政に打って出ることもあり得る、と。

記事は、最後にアジア学の権威、キングストン教授の言葉を紹介。

「今のところは人気があるが、今後下がる可能性もあり、首相候補となるかどうかを云々するのは時期尚早」

さて、ポピュリストとかポピュリズムという言葉。

英語の辞書を引くと、人民主義者とか人民党員と出ています。
このように訳される場合は、アメリカで19世紀の終わりから20世紀に現れた政治の動きのことですね。

今この言葉で表されるのは、日本なら維新の会、フランスならルペン氏の国民戦線、そしてアメリカのトランプ大統領。

既存の政治との対決姿勢を示し、あまり細かいことは論じない。
わかりやすい言葉で大衆に訴えるので、大衆迎合主義と訳すこともできます。

小池知事とトランプ大統領では、イメージは全く違います。
小池氏が環境保護に関心を見せ、トランプ氏は「地球温暖化はデマだ」と言っているのも対極的です。

しかし、国内の外国籍の人々に対する抑圧など、よく見ると似ている点も多々あります。

abcニュース原文
http://abcnews.go.com/International/wireStory/tokyo-election-populist-leader-shift-japan-politics-48366559


2017年7月5日水曜日

内閣府とは ー 宇宙からアル中まで

ナイカクふ。
最近よくニュースで聞く言葉。

何をやってるところなのか、今一つわかりにくい。

それもそのはず、内部では
「宇宙からアル中(アルコール依存症)まで」
何でもやらされるとの声も。

内閣府がいつから日本にあるかというと、比較的最近のこと。
2001年に中央省庁再編に伴って、かつての総理府に代わって設立された。
総理大臣が直接手を染めることによって、縦割り行政を改め、総理大臣のリーダーシップを強める利点があるとのこと。

かつての総理府と今の内閣府の共通点は、元号や栄典(賞の授与など)の他、総理が直接管轄すべきと判断された事柄を担当する点。

と聞くと、一体誰が、総理が直接管轄すべきと判断するのか、という疑問が湧く。

その疑問は取り敢えず大切に取っておくとして、総理府当時の例を挙げると、阪神淡路復興対策本部があった。

これは、急ぐからという理由で理解しやすい。

その他に、行政改革本部や国際平和協力本部が設置された。

総理府、内閣府のもう一つの役割は、様々な省庁に関わる事柄について、省庁間の調整をはかること。
例えば、男女共同参画社会の促進がそれに当たる。

総理府と内閣府の違いは、担当範囲が桁違いに増えたことである。

特命担当大臣という内閣府の大臣は、発足当時6人置かれた。
(イギリスの内閣府の大臣が6人なので、これを参考にしたのかもしれない。)
今では9人に増えている。

審議会の数も半端ではない。
宇宙政策委員会民間資金等活用事業推進委員会、日本医療研究開発機構審議会、食品安全委員会、子ども・子育て会議、公文書管理委員会、障害者政策委員会、原子力委員会、地方制度調査会、選挙制度審議会、衆議院議員選挙区画定審議会、国会等移転審議会、公益認定等委員会、再就職等監視委員会、消費者委員会、沖縄振興審議会、規制改革推進会議

さらに施設等機関として、
経済社会総合研究所、迎賓館。

さらにさらに、特別の機関として、
地方創生推進事務局、知的財産戦略推進事務局、宇宙開発戦略推進事務局、北方対策本部、子ども・子育て本部、金融危機対応会議、民間資金等活用事業推進会議、子ども・若者育成支援推進本部、少子化社会対策会議、高齢社会対策会議、中央交通安全対策会議、犯罪被害者等施策推進会議、子どもの貧困対策会議、消費者政策会議、国際平和協力本部、日本学術会議、官民人材交流センター、原子力立地会議

このすべてを、安倍晋三氏が直轄する、それがナイカクふ。

これが会社だったら、社長がなんにでも口を出し、人事にも圧力をかけるということか。

会社の場合、規模や時期、人物によっては、ワンマンでうまく行くこともあるだろう。
しかし、弊害の方が多いし、腐らずに長く続くものではない。
ましてや国となれば、どんな大企業よりも大きいし、ずっと複雑である。
問題が起きない方が不思議かもしれない。

2017年7月1日土曜日

東京都知事、海外の反応

小池百合子氏が都知事になった時の海外の反応を振り返ってみました。

まずフランス、ルモンド紙。 

 「アラビア語は喋るが極めて国粋的な新都知事、「大改革」をもたらしたいと語る」

外国語が話せれば国際派、ではないというわけか。

次いで、ジャパンタイムズは選挙戦を分析し、

「 小池氏は巧妙に、自分が「一人で闘っている」ことを強調した。たとえ火あぶりになっても進み続けると誓い、15世紀のフランスのヒロイン、ジャンヌダルクに自らをなぞらえることさえした。
このアプローチは明らかに彼女に有利に働いたようだ。」

ジャパンタイムズとニューヨークタイムズは、ご存知のように緊密な関係にあります。

ジャンヌダルクといえば、安倍首相も当初、稲田朋美氏をジャンヌダルクにたとえていました。
フランスの新聞は、「ジョークですらなくジャンヌダルクを持ち出し」と書いていました。
顔を赤くするのは私一人でしょうか。

ニューヨークタイムズは、

「日本のガラスの天井を破るもフェミニストの中には懐疑的な意見も」

と述べ、小池氏の支持母体がきわめて保守的な団体であることを挙げています。
女は家にいるべきという主張とどう折り合うのか?
この記事で紹介されている二人のフェミニストのうち、一人は、
政治的立場には賛成できないが、彼女のような女性が日本にいると世界に知ってもらうことに意義があると語っています。
もう一人は、小池氏は排他的すぎる、単に女だからという理由だけで投票することはできないと言っています。

アメリカでグーグルニュースなどにも取り上げられるウェブブログ、メタフィルターには、

「彼女は強硬な国粋主義者。
自分をサッチャーやヒラリー・クリントンと比べるのが好きだけど、クリントンと似ているところなんて一つもない。
 彼女は移民が日本にいるのが嫌なんだ。」

マイノリティーに人気のあるヒラリー・クリントンとは大違い、サッチャーだって差別的言動をしたりはしなかった、と手厳しい。

どんなに緑のお洋服を着たところで、
タカ派であることは隠せない。
その点で小池百合子氏は、ヘイトスピーチを言論の自由だとか言っていた前任の舛添氏や安倍首相と何ら変わるところがないということでしょう。
あの時は、欧米に怒られてからやっと取り締まりに乗り出したものでした。 

今のところ東京は課題山積で、タカ派の面を発揮しているヒマはないようです。
しかし、彼女の過去を見ると、人を裏切ってまで勝ち馬に乗る傾向があります。
常に自分にとって何が得かで動いている。
ということは、タカ派的な面を出すことが自分が生き延びる道だとなれば、ためらわずそうするでしょう。

ルモンド紙原文
  http://www.lemonde.fr/asie-pacifique/article/2016/08/01/la-conservatrice-yuriko-koike-premiere-femme-a-diriger-tokyo_4976840_3216.html#LMWhLBdkSOcoJjrC.99
ジャパンタイムズ原文
 http://www.japantimes.co.jp/news/2016/08/01/national/politics-diplomacy/tokyo-elects-former-environment-minister-yuriko-koike-as-citys-first-female-governor/#.WVWvWstKOhA
ニューヨークタイムズ原文
 https://www.nytimes.com/2016/10/01/world/asia/yuriko-koike-tokyo-governor.html
メタフィルター原文
 http://www.metafilter.com/161342/Traitor-Too-much-make-up-Dressed-as-a-woman-but-a-hawkish-man