2017年10月26日木曜日

選挙戦の結果への海外の反応 - フランス -


『リベラルな秋風、日本選挙戦に吹く』

という見出しで、フィガロ紙は選挙戦の結果を伝えています。

フィガロはルモンドと並び称されるフランス二大新聞の一つ。
論調は中道右派、または右派とされています。

「安倍氏はますます選挙民の信頼を失っている。人々は粘着テープのように彼にまとわりつくえこひいきのスキャンダルを許してはいない。」

ね、ねんちゃくテープ?

この言葉、sparadrap は絆創膏と訳すこともできますが、オンラインのフランス語辞書には載っていませんでした。
現在、日常会話のフランス語で絆創膏と言いたいときはpansement という言葉を使うのが普通です。

絆創膏のイメージで記者がこの言葉を使ったとすると、 キズの上に絆創膏が貼ってある図でしょうか。

あまりお目にかからない単語とはいえ、文豪ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル(ああ無情)』にも出てきます。

『包帯を巻くのは面倒で難しいことだった。sparadrapで布や器具を留めるなどということは、当時まだ誰も考えついていなかった。』

貧富の差が激しかった時代に、政治家としてのユーゴーは福祉や教育改革、死刑廃止を訴えていました。
彼は次第に独裁化していくナポレオンに反対。
弾圧されて亡命を余儀なくされたこと等よく知られていますね。

さて、選挙民の怒りは社会に、政治にどのような絆創膏というか、治癒をもたらすのでしょうか。

2017年10月21日土曜日

ノーベル文学賞を受賞した作家にはどんな共通点があるか


ダイナマイトの発明によって巨万の富を得たノーベル。

彼の兄が亡くなったとき、ノーベル自身がが亡くなったと勘違いした新聞は「死の商人、死す」と書き立てたという。

この時から、彼は自分が死後どのように記憶されるかということについて考えるようになったそうだ。

だから、ノーベル賞には平和賞がある。

ノーベルは文学が好きで、自分でも詩を書いていた。
外国語に堪能であったことから、趣味で文学を翻訳することもあったという。
文学も科学と同じように人類の発展に寄与すると信じたノーベルは、「理想的な方向性の」文学にも賞を授与するようにと書き残した。

ところで、戦後のヨーロッパの文学者たちは、廃墟から出発した点で日本と同じだが、「あんなことをしでかした人類に、これからも文学が可能なのか。」と問うたという。

「あの戦争」の後で、それ以前と同じ意識では書き続けられないことは明白だったのだ。

ノーベル文学賞を受賞した作家たちの名前を見ていると、「歴史的な視座」という言葉が浮かんでくる。

詩人、小説家、戯曲家、哲学者、そしてボブ・ディランという現代の吟遊詩人。
ジャンルは様々だし、スタイルも様々。
前衛的な作家もいればそうでない作家もいる。
共通点はもしかすると、文学的に優れていること+歴史的な視座を持って活動したことではないか。

「社会派」とは言えず、ごく個人的な作品を書いているように見えるモディアノにしても、あの戦争、記憶、曖昧なアイデンティティといったテーマが見え隠れする。

歴史そのものを作品に盛り込むか否かということではなく、歴史を見据える眼差しが感じられるかどうか。

そう考えると、村上春樹氏が受賞しない理由もわかる気がする。

では、しかと歴史を見据え、しかもフランス文学史に革命を起こしたデュラスのような作家はなぜ受賞しなかったのか。

ノーベル文学賞のもう一つの条件は、性そのものをテーマとしないことかもしれない。

小説に性的な描写はつきものだが、性そのものをテーマとしてきた作家は受賞していないように思える。

作家や芸術家は、賞を目指して活動するものではなく、ひたすら「自分の仕事」をするものだ。
その結果として賞を取ることもある。
賞がこういう傾向だからこういう風に書こうというものでもないだろう。

ノーベル賞は重みがある。
 選ぶ方も大変だろうと思う。

2017年10月15日日曜日

ノーベル文学賞と村上春樹



ノーベル賞の季節が近づくと、毎年のように「今年は村上春樹が受賞するだろうか」ということが話題になる。

自分が好きな作家が世界最高の栄誉を受けたら嬉しい、という気持ちはもちろん多くの人が持っているだろう。

でも、それがそんなに大切なことなのだろうか。

ファンの評価はおそらく、ノーベル賞を受けようが受けまいが変わらないだろう。
ファンではない人で権威主義的な人なら、ノーベル賞を取ったということで評価を変える人もいるだろう。
村上春樹の文学を認めない人の中には、ノーベル賞を取ったからといって評価を変えない人も大勢いるだろう。

村上春樹の作品は、すでに多くの言語に翻訳され、世界中にファンがいる。

ノーベル文学賞を取ったから作品の質が上がるわけでもないし、取らないから下がるわけでもない。

過去の作家たちを振り返ってみれば、すばらしい作家でもノーベル賞を取らなかった人たちが多いことに気づくだろう。

トルーマン・カポーティもマルグリット・デュラスも取っていない。
なんと、ジェームズ・ジョイスも取っていない!
(最もジョイスの場合は、もう少し長生きすれば取っていただろうと思われる。
ノーベル賞は亡くなった人には授与されないから。)

一方、後から考えると「なんでこの人が取ったんだろう?」と思う作家もいる。

アメリカ人の友人で大変な読書家がいるが、彼は自国の劇作家、ユージン・オニールがなぜノーベル賞を取ったかわからないと言っていた。
「そりゃもちろん、いい作家だよ。でも、ノーベル賞かなぁ・・・」

2014年にフランスのパトリック・モディアノが受賞した時も、多くのフランス人の反応は
「えー、本当?!モディアノが!?」
というもので、
「フランス人が取って嬉しい。」
という人はいなかった。
まぁ、どこかにいたにはちがいないが、大方の反応ではなかった。

驚いた人々の全てがモディアノを評価していなかったというわけではない。
ノーベル賞を取るタイプの作家だとは思っていなかったということだろう。
モディアノにも熱烈なファンがいる。
この点で村上春樹に劣るわけではない。

ちなみに、モディアノはノーベル賞以前にフランスの芥川賞とも言うべきゴンクール賞を受賞しているが、ゴンクール賞とノーベル賞を共に受賞した最初の作家となった。

日本でも有名なアルベール・カミュはノーベル賞は受賞しているが、ゴンクール賞は受賞していない。

つまり、ゴンクール賞の基準とノーベル賞の基準は違うのだ。

ノーベル賞の審査が、好みとか気分で決められるはずはない。
ノーベル文学賞にはノーベル文学賞の、しっかりとした基準があるにちがいない。
そしてその基準は、昨年ボブ・ディランを選んで世間を驚かせた時も、しっかりと働いていたと思われる。

それはどんな基準だろう。

2017年10月14日土曜日

ノーベル文学賞2017年、カズオ・イシグロ氏はイギリスの作家


今年のノーベル文学賞は、ヨーロッパでも人気の高いカズオ・イシグロ氏に決まった。

日本のニュースを見ていると、「日系、日系」と言って騒いでいる。

彼は長崎に生まれ、5歳の時イギリスに渡ったのだから、日系には違いない。

しかし、彼の文学の言語は英語であり、教育を受けたのもイギリスで、作家となる前に働いていたのもイギリスである。

小説家としてのカズオ・イシグロが作られたのはイギリスであり、英語によってなのだ。

もちろん、日本語の感覚や5歳までの記憶も彼の一部を成している要素には違いないだろう。

しかし!
昨日のニュースでは、彼の思春期を知る人や、大学の先生、作家としての形成期に関するインタビュー等は一つもなかった。
これから出てくるとは思うが、当日にイギリスで周囲の人からインタビューを取ることがそんなに大変なことなのだろうか。
英語の通訳ならいくらでもいるのに。

ヨーロッパに住んでいると、様々なバックグラウンドを持った人々と出会う。
両親や祖父母がアジアやアフリカから来たという人も多い。
親の片方が外国人だったという人も珍しくない。
どんなバックグラウンドを持っていても、今フランスに住んでいて、フランス国籍を持っているなら、彼らは皆フランス人だ。
国籍を複数持っている人も普通にいる。
親の一人が外国人の場合など、二つ国籍を持つのが一般的だ。
どちらか片方を選ばされるということはない。
どちらもその人の一部なのだから。

カズオ・イシグロさんは日系であり、同時にイギリス人なのだ。
彼の生活、仕事、6歳以降の自己形成の場は、イギリスである。

日系、日系と言って、イギリスという言葉があまりにも少ないニュースに違和感を覚える。

彼は、長崎出身の、イギリスの作家だと言えば、より正確なのかもしれない。

試しに第三国であるフランスの新聞の記事を見てみると、フランスの二大新聞の一つ、ルモンドの見出しは

「ノーベル文学賞、イギリスの作家カズオ・イシグロ氏に」

となっている。

もう一つのル・フィガロ紙は

「2017年ノーベル文学賞、カズオ・イシグロ氏に嬉しい驚き」

という見出しの後で、「栄誉ある賞はイギリスの作家カズオ・イシグロ氏に授与されることが決まった」
と続けている。

最後に念のため付け加えれば、栄誉を受けたのは日本でもなければイギリスでもなく、作家本人である。

(写真はノーベル賞授与式後に晩餐会が開かれるストックホルムの市庁舎)

2017年10月6日金曜日

日本のいじめとフランスのいじめはどう違うか -4-


自分よりずっと体の大きな子どもに暴力を振るわれるのは、どんなにか恐ろしいだろう。
そんなことは絶対に起こらないようにしてもらいたい。
国際調査で「いじめられたことがある」と答えたフランスの子どもの割合が、日本より多いのも不思議はない。

それなのに、日本の方がいじめによって自殺してしまう子どもの割合が多いのは、どうしてだろう。

いじめられる子の立場に立って、できる限り想像してみよう。

まず、フランスなどの伝統的ないじめ。
フランスにも他のタイプのいじめもあるが、とりあえず、こんな状況を考えてみよう。
自分より圧倒的に体力に勝る大きな子どもにぶたれたとする。
痛い。
怖い。
泣くかもしれない。
力の差が明らかだから、仲間は助けてくれない。

でも、仲間は見ている。
彼らは同情するだろう。
「大丈夫?」と後で慰めてくれるかもしれない。
「怖いね。」「ひどい奴だね。」と言い合うかもしれない。
先生か親に知られれば、自分をいじめた者が罰せられるのは明らかだ。

次に、よく取り上げられる日本の学校でのいじめ。
あなたをいじめるのは、仲間であるはずの同じクラスの子どもたちだ。
彼らはあなたには何の価値もないと言う。
ほかの全員がその通りだと言う。
誰もあなたの側に立たない。
誰も慰めてくれない。
味方は一人もいない。
あなたには居場所がない。
それが毎日続くと、自分は本当にダメな奴なのかもしれないと洗脳され始める。
家に帰れば味方がいるかもしれないが、平日、起きている時間の大半を過ごすのは、家ではなく学校である。

一人でも味方をしてくれる人がいれば、人間は生きていけるのかもしれない。
全ての人があなたのことをウザイと決めたとき、人は本当に追い詰められるのかもしれない。

2017年10月4日水曜日

日本のいじめとフランスのいじめはどう違うか -3-



日本を含め、アジア・アフリカでは、年上の子が年下の子の世話をするようしつけられていることが多い。
それが高じると上の子に不満が溜まってしまうこともあり、やりすぎは考え物である。
ただ、そのおかげもあってか、体の大きな小学生が幼い幼稚園児を殴るなどのいじめはあまりない。
ないとは言わないが、教育現場でそのようないじめが起こるのは珍しい。
フランスでは、力の勝る年上の子が年下の子に暴力をふるうのは、よくある話だ。

幼稚園と小学校が一貫校となっているところも多い。
かつては休み時間に同じ校庭で3歳から12歳までの子が遊んでいたので、小さな子どもたちにとって、幼稚園に行くというのは厳しい試練だったらしい。

「ぼくには大きいお兄ちゃんがいる」と言って年上の子からのいじめを逃れようとした子もいると聞いた。

フランス人の夫は、子どものころ妹や弟をかばうのに忙しく、休み時間に遊んだ覚えがないという。

現在では、幼稚園児が遊ぶスペースと大きい子たちが遊ぶスペースを分けているところが多い。

私たちが子どものために幼稚園を選んでいた時も、宣伝文句として、「小さなお子さんたちの遊び場には大きい子どもたちは入れませんから安心ですよ。」と言われた。

私には最初、何のことだか分からなかったのだが。 

フランス人である私の姪は、校庭で大きな子にぶつかられ、腕の骨を折ったことがあった。
「わざとではなかった」という報告だった。
母親である義妹はその説明を信じていたようだったが、私の夫はわざといじめたに違いないと思っているようだった。
自分自身の厳しい子ども時代を思い出してのことだろう。
どちらが真実かは、わからない。

2017年10月2日月曜日

日本のいじめとフランスのいじめはどう違うか -2-


前回の記事で、「いじめられたことがある」と答えた子の割合が日本よりフランスの方が多いにもかかわらず、自殺にまで至るケースは日本の方が多いと書いた。

日本で自殺が多いという話題になると、決まって出てくるのが自殺観の違いである。

キリスト教の国では自殺は罪と見做されるが、日本ではそうではないから踏み切りやすいのだという。

それも少しはあるかもしれない。
かつてヨーロッパでは、自殺はタブーであったため、誰かが自殺しても家族が事実を隠すこともあった。

今は、隠すことは少ない。

数年前のことだが、技術者が上司のパワハラを苦に飛び降り自殺をしたとニュースで聞いた。

同様の事件は日本よりはずっと少ないようである。
しかし、人は本当に追い詰められたとき、文化の違いに関わらず、死んでしまうことがあるのだ。

だとすれば、日本にいじめを苦に自殺する子どもが特に多いということは、日本には本当に子どもを追い詰めてしまう類のいじめが多いということだ。
同じいじめでも、逃げ場の無い状況になってしまうことが多いということだ。

良いいじめと悪いいじめなどがあるはずはない。
いじめはどれも過酷だ。
それでも、生き延びれば人生を取り戻せる可能性がある。

フランスで子育てをした私は、フランスでもいじめが恒常化していることを知っている。
そしてそれは新しいことではなく、何世代にもわたって続いてきたことだそうだ。

それでも、自殺にまで至るケースが少ないのはなぜか。
私にはいくつか思い当たることがある。