2018年10月31日水曜日

ハロウィーン、皆で羽目を外せば怖くない?

カボチャ、菊
南瓜と菊
ヨーロッパでハロウィンといえば、お墓参りだった。

そのヨーロッパでも、もちろん人は羽目を外すことがある。

一部のサッカーファンが羽目を外しすぎて周りの人達に迷惑をかけてしまうことなどもある。

だからサッカーなんて大嫌いだ、というヨーロッパ人もいる。
ヨーロッパの人なら皆サッカーが好きなわけではない。

人間というものは、年がら年中、四六時中、真面目にしていられるものではない。
どこかで羽目を外さないと持たないだろう。

要は、それが他の人の迷惑となるかならないか。

日本人はシャイだから、集団にならないと羽目を外せないということもあるかもしれない。
でも、実は羽目を外すのに群れる必要は必ずしも、ない。

例えば、アートの中に自分を解放する人もいる。

海外からやって来たあるダンサーが、日本でグループを作るに当たって嘆いていたことがある。

「みんなで集まった時何かが起こるには、一人の時に練習したり、考えたり、感じたりしていることが前提なんだよ。 
一人で何もしないでいて、みんなで集まりさえすれば何かが起こるとか、誰かが何かを与えてくれるとか思ってやってきても、何も起こらないよね。」

集団練習を休んだことがないからと言って、勤勉とは限らない。

頭の中は勤勉か?
感性は? 

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2018年10月30日火曜日

ハロウィン!ハロウィン?渋谷で軽トラックが倒された!


なぜここまで加熱してしまったのか?

と考えてみると、ハロウィンがかつての祭のような役割を担っているからかもしれない。
日本各地に残る奇祭とハロウィンの違いはなにかと言えば、祭には社会のコンセンサスがあるけどハロウィンにはない、この一つに尽きるだろう。

祭の役割の一つは、一年間真面目に働いてきた人たちが一年に一度羽目を外すことでもあった。
普段真面目に働いているからこそ、羽目を外す時は思い切り外す。

コンセンサスのない「祭」の真ん中に迷い込んでしまった軽トラックには心から同情する。
持ち主の方がきちんと弁償してもらえますように。

トラックをひっくり返してしまった人たちは、今頃我に返って青くなっているかもしれない。
みんなで盛り上がって我を忘れてしまうことを「集団心理」という言葉で心理学者は説明していたけれど、 日本社会で育った人達には、集団心理に陥りやすい人が多いようだ。

イジメの問題もこれと関係しているのだろう。

日本でも、何らかの意味でマイノリティの意識を持っている人は、「みんなの盛り上がり」に乗れないという経験があり、 集団心理に陥りにくい面を持っていることがある。

しかし、「みんな」に加われなかったからこそ、加われる場面では思い切り加わってしまうという人もいるかもしれない。

非行を激減させたある中学校の校長が言っていた。
人は一人でいる時に子どもから大人になるのだ、と。 
みんなでワイワイ言っているときに成長するのではない。

だが、授業が終わってからも夜7時近くまで学校にいて、週末も試合に出かけていくような生活の中で、個を養う時間がどれくらいあるだろう。

大人になっても個が成熟していなければ、集団の中で我を保つのは難しい。

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2018年10月2日火曜日

ノーベル賞受賞の本庶佑さんを見てあることに気付いた


ノーベル医学生理学賞、2018年は本庶佑先生に決定。

昨夜その報せを告げるニュースを見ていて、気がついたことがある。

受賞した研究者があまりにも美男子であることだ。
まるで二枚目俳優。

(これまで受賞した先生方も、もちろん素敵なお顔をなさっていました、念のため。)

今76歳でこんなイケメンなら若かりし頃はさぞかし、と思った。 

今朝、若い時の映像が出て二度びっくり。

ふ、ふつーではないか。

そうか。 

遠い地平線を見つめるかのような眼差し、キリリと結ばれたくちびる、削ぎ落とされた頰。

今のあのお顔は、本庶先生の人生と共に作られていったものなんだ。

続いて仲間によって語られるエピソードは、それを物語るものだった。

時流に流されず、自分が知りたいことを追求する。
若い同級生の死の衝撃によって、ガン治療に興味を持つ。
新薬開発を多くの企業に断られながら、粘り強く交渉を重ねる。 

「男は30を過ぎたら自分の顔に責任を持たなければならぬ」とか言う。
もちろん、それは男に限らない。
毎日の表情が、私たちの顔を彫刻していくからである。

ということは、私たちにもチャンスがあるということだ。

ノーベル賞を取るチャンスのことではない。

76歳になった時に、若い時よりも美しい顔を持つチャンスである。 

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2018年8月11日土曜日

塾の選び方を現役講師に聞いた - 意外なポイントとは


夏休みといえば、海、山、おじいちゃん、おばあちゃんの季節だが、塾の夏期講習の季節でもある。

これからお盆で、夏期講習も一息つく塾が多いようだ。

複数の塾で講師をした経験があり、数多の受験生を合格に導いた友人に先日愚痴を聞かされた。

塾をどうやって選んだらいいか迷っている方や、これから塾で教えたいと思っている方にも参考になりそうな話だった。

難関校狙い専門の塾もあれば、いわゆる補習塾もある。
一クラスの人数が多い塾もあれば、少ない塾もある。
しかし、塾選びのポイントは、そうした外から見て分かることだけではないと言う。

校風があるように、塾にも塾風があると彼女は言う。
勉強を教えるだけではなく、生徒と良いコミュニケーションを取る必要がある。
そこまではどの塾でも同じだが、良いコミュニケーションの意味が塾によって異なるそうだ。
同じ系列の塾でも、居住区域によって雰囲気が変わることも多いらしい。

ある塾では、教師と生徒は親しくてもケジメがあることが良いコミュニケーションだし、別の塾では教師と生徒が馴れ合っているのが究極の良いコミュニケーションとされる。

ある塾の子どもたちは教師がダジャレを言うと白けるが、別の塾では歓迎される。

真剣に勉強する子を育てようとしている塾もあれば、サービス業だからとにかく笑いを取らなくては!という塾もある。

「楽しく勉強する」の「楽しく」にも色々あるということ。
ところが、講師が研修の段階で言われることに、さほどの違いはないそうだ。

だから、講師としては入ってみないと分からないということになる。

生徒と保護者の立場だと、体験入塾ができればいいが、そうでない場合は信頼できる人に聞いてみるしかない。

子どもが満足していても、なぜ満足しているか確かめる必要があるし、逆に不満だとしても、問題があるからだとは限らない。

塾風が合う合わないは人によって違うので、良いか悪いかではなく、教師と生徒の関係がどんな感じかを確かめた方がいいだろう。

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2018年7月20日金曜日

常田富士夫さん、暑中お見舞い申し上げます

常田富士夫さん
またとない個性
忘れえぬ存在

市川悦子さんとの
『まんが日本昔ばなし』
いつ見ても
すっかり引き込まれて

本当にありがとうございました😢💐

2018年7月14日土曜日

老いた親が障害のある子どもを殺すという事件はなぜ止まない 2



親が心配のあまり子どもの命を奪ってしまうという事件。
実は、社会と個人の関係とも絡んでいるのではないかと思う。

日本では、家族という集団が他者である外部に閉じられている。

自分の子どものことは自分で何とかしなければならない。
他人様に迷惑を掛けてはならない。

子どものことだけではなく、年老いた親や夫婦間の介護もまた同じである。

自分がいなければこの子はおしまいだとしか思えない。
神様が面倒を見てくださるだろうとも思えないし、世間様が面倒を見てくれるだろうとも思えない。

そのような家族観に合わせるように、またはそのような家族観を利用するかのように、社会保障もまた貧弱である。 

個人主義であれば、誰でも社会の中の個人であることに変わりはない。
ケアが必要な人を社会全体で見る社会保障の考え方も馴染む。

助けが必要な人には赤の他人であっても手を差し伸べる、それが連帯という言葉の意味でもある。

しかし、家族という集団が分割しうる最小の単位で個人が存在しなければ、社会が個人と繋がることは不可能である。

かつては大家族が一般的だったからそれでも機能したのかもしれないが、頼みの家族が小さくなった今、家族主義は非力である。

高齢化が進まなくても難しいのに、高齢社会で核家族が社会から孤立したら生きていけなくなる。

障害のある子どもを抱え、自治体に相談したが何もしてもらえず、結局悲惨な結末となった例もあった。

一皮むけば悲惨な社会 - それでは誰一人心から安心して暮らせない。

新しい考え方、新しいシステムが必要なのだとあらためて思う。


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2018年7月12日木曜日

老いた親が障害のある子どもを殺すという事件はなぜ止まない

しばらく前になるが、 年老いた母親が心臓に障害のある娘を殴って死なせてしまうという痛ましい事件が起こった。

母親は自分がいなくなった後、娘がどうなるのかと思いつめてしまったという。

この種の事件が後を絶たないのはなぜだろう。

実は西洋では極めて少ない。

一つの文化圏が別の文化圏より倫理的に優れているとか劣っているということは普通考えられないが、こうした事件に関しては日本の方がずっと多い。

その説明としてよく引き合いに出されるのがキリスト教の影響である。

子どもの命は親のものではなく、神のものだから、それを奪うのは恐ろしい罪だとされる。

同じ理由で自殺もまたタブーである。

自分の命もまた神のものだから、自ら命を絶つことは神に対して罪を犯すことになる。 

私は別の説明をフラン人の母親に聞いたこともある。

「私たちは、その子が生まれたいから生まれてきたと考えるんです。」

そういえば、「生まれる」というフランス語は能動態で表される。
日本語でも英語でも受け身なのに。

「産む」に対して「産まれる」「生まれる」があり、bearに対してbe bornがあるのだが、フランス語には「生まれる」という独立した一つの言葉がある。

フランス語で初めてこの言葉を習った時、私は少なからず驚いたものだ。 

しかし、理由はこの二つだけではないと思われる。

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