2017年11月26日日曜日

教養は人を守るか - 「死にたい」と呟く人を


「教養」という言葉は私の中で、「ひけらかす」という言葉と対になっていた。
なんだかあまり重要なものだとは思えなかったのだ。
私だけではなく多くの人が、「教養」をひらひらした飾りもののように思っているのではないか。

しかしそれは、あの事件が起きるまでの話だった。
ツイッターに「死にたい」と書き込んだ人たちが詐欺師につけ入られ、殺されてしまったというあの事件。

死を考えることが、人間にはあるのだと思う。
ツイッターに書き込みをする人たちの中には、本当に死のうと思っているわけではない人たちも多いと聞いた。
誰かにわかってもらいたい、助けてもらいたいという気持ちで発信することもあるだろう。
思いの切実さはそれぞれだとしても、死を考えることが、人間にはあるのだろう。

ただ、死を考えたとき、何をするかは人それぞれである。
ツイッターに書き込む人もいれば、書き込まない人もいる。
書き込んだだけですっきりするのなら、それはそれでいいだろう。

書き込まない人の中には、何でも話せる人が身近にいるという、おそろしく恵まれた人もいるにちがいない。

そんなに恵まれてはいないが、自分がしっかりと掴まることのできる何かを持っている人もいる。

音楽によって力を得る人は多い。
ある人にとってはそれは詩かもしれないし、絵や彫刻かもしれない。
自分で創る人もいれば、鑑賞することによって体験する人もいる。

文学者や芸術家に自殺者が多いのは周知の事実だ。
あまりにも感覚が研ぎ澄まされていて繊細だから人生が耐え難くなるという場合もあるだろう。
あまりにも深いところまで追求し、掘り下げていくから、死に近づいてしまうということもあるかもしれない。

だからそんなものは役に立たないという意見もあるかもしれない。
しかしだからこそ、アーティストや文学者には、自殺したい人の気持ちがよくわかるということにもなる。
彼らは、「死にたい」と思った道を通りながら、一生懸命生きた人たち(または生きている人たち)だ。
たとえ最後に自殺してしまったとしても、死ぬまでは生き、作品を残した人たちである。

その作品に触れることは、彼らと語り合うことだ。
身近にわかってくれる人が一人もいなくても、自分をわかってくれる人を持つことである。

映画『エレファントマン』の中で、見世物になっているエレファントマンが、一冊の本を覚えるまで読んでいるという設定があった。
彼は獣のように檻の中に閉じ込められながら、毎日シェークスピアの言葉を呟いていたのである。
希望のない生活の中で、シェークスピアの言葉に掴まって生きていた。

もちろん、シェークスピアじゃなくていい。
自分を助けてくれるものが何なのかは、人によって違うのだから。

しっかりと掴まることのできる言葉や、音楽や、色彩やフォルムを持っている人は幸いだ。

もし教養という言葉の意味が、私たちを助けてくれる作品がこの世界にあると知っていること、だとしたら。
教養は私たちを守ってくれるものだと言える。

文学者や芸術家、童話作家、ミュージシャン、マンガ家たちが、命を懸けて残していってくれた作品。
私たちはそこから力を得て、もう少しばかり生きてみてもいいのではないか。

あるダンサーにこんな話を聞いたことがある。
講演後、年配の見知らぬ女性が楽屋を訪ねてきて言ったそうだ。
「あなたの踊りを見て、もう3日、生きる勇気を与えられました。」

もう少しばかり生きてみる間に、私たち自身も、何か良いものを世界に残すことができるかもしれない。
人は、一日、一日を生きることしかできないのだから。


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿