2014年10月30日木曜日

メトロの楽園

パリのメトロ14番線は、1998年に一部が開通、全て開通したのは2007年という新しい線です。

他の線よりスピードが速く、自動運転。開設当初から、安全のためにホームの線路際に透明なドアが付いていていました。扉は大人の背丈より高く、乗り越えるのはほぼ不可能です。

新しいのは機能だけではなく、建築やデザインも、他の線とはひと味違います。パリのメトロの狭くて暗いイメージを変えようと、広々とした空間と透明感を基調として設計されたそうです。

メトロの駅というよりは、地方や外国に旅立つ鉄道の駅や、郊外電車の駅に似ています。

14番線は、サン・ラザール駅とオランピアッド駅を結び、途中にはフランス版新幹線TGVが発着するリヨン駅もあり、旅行鞄を持った人も多く見かけます。

全部で9駅と駅の数は少なく、どの駅もデザインに趣向を凝らしています。私が時々利用するリヨン駅には、線路の向こうに南国を思わせる庭園があります。植物がよく育つように、特別な光を使っているのでしょうか。今日はカボチャも置いてありました。

カランコエなどの花も見えます。

「ここにイグアナがいたらなぁ」 というのは、ムスコの感想。

速くて便利ですが、調べてみると、過去に何回か、自動運転ゆえの故障があったようです。2006年には、乗客がトンネルの中に1時間半も閉じ込められてしまったことがあったとか。けが人が出るよりはずっといいですが‥

ちなみに、現在では、他の線でも、ホームに透明の扉が付くところが増えています。パリのメトロでも飛び込み自殺がありましたし、モダンな14番線以外でも、自動化が進みつつあります。運転手がいないところでは、ホームに扉を付けるという方針のようです。

2014年10月28日火曜日

フランスの新しい結婚

20%以下と支持率の落ちているオランド大統領。しかし、誰ならもっといいのか、ということになると、難しいところです。

オランド大統領も、何もしなかったわけではありません。2013年には、一部の反対を押し切って、同性カップルの結婚を法的に認めました。

同性カップルが少数だからといって、異性カップルと同じ権利を認めないということでは、全ての人の平等を謳う民主主義の原則に反するということでしょう。

同性カップルの結婚、一番早かったのはオランダで2001年。(デンマークでは、それより以前、1989年に、結婚という言葉こそ使っていませんが、同性カップルに異性カップルと同じ権利を与えています。)2003年にはベルギーで正式に結婚が認められ、カナダやアメリカ、イギリスは州ごとに認めていきました。その他、北欧諸国や南アフリカ、スペイン、アルゼンチン等、フランス以前に認めていた国は少なくありません。

結婚と言っても、カトリック教会は同性同士の結婚を認めていないのですから、神の前での結婚ではなく、市長が執り行う結婚のみで、民法上のものです。カナダやスェーデン、アメリカの一部のプロテスタント教会では、同性同士の結婚を認めているそうですね。

「全ての人のための結婚」 - この新法について初めて聞いたとき、私は当然、同性愛の友人たちの顔を思い浮かべたわけですが、彼らのために喜ぶというより、反動を危惧しました。

欧米ではカミング・アウトしている同性愛者も多く、前のパリ市長もその一人でした。市民権を得ているかのように見えるかもしれませんが、宗教的なタブーと結びついているため、実はそんなに簡単ではないのです。

他の国の事情はよく知りませんが、フランスには、同性愛者を差別する人の中に暴力を振るう人もいて、からかわれるとか変な目で見られるというレベルでは済まない場合もあります。

キリスト教以前のローマ帝国では、男性同士の結婚があったことが記録されているようです。また、アメリカの先住民は同性同士の結婚を認めていました。

フランスでは、法律の制定前から、「全ての人のための結婚」に反対する「全ての人のためのデモ」というのが盛り上がりを見せ、法律制定後も、取り消しを求めて活動しています。今年10月にも、開催者によれば50万人、警察によれば7万人がパリでデモ行進しました。

彼らは「家族」とか「子供」とか、誰も反対できないような価値を掲げ、繰り返し「私たちは同性愛者を差別しているわけではない」と主張するのですが、実際のデモの際にはその主張とは裏腹の叫びも聞こえ、さらに、人種差別的言動も問題となっています。

この法律を通したトビラ法務大臣はギニア出身の女性。2013年に彼女が新法制定のためにフランスの地方都市アンジェを訪れると、「全ての人のためのデモ」が集まっていました。両親に付き添われた11歳の少女がバナナの皮を持って進み出ると、法務大臣に向かって、 「雌豚め、お前のバナナを食え!」と叫んで‥周りにいた他の子供たちも同じ文句を大合唱。デモの大人たちは少しもこれを制止しようとしませんでした。それどころか、デモ隊の行進中、同じ言葉を叫んでいるのが聞かれました‥

今年10月20日には、こん棒を持った若い男が同性愛らしい男性をめった打ちにするという事件も起こりました。被害者は重傷を負って入院。加害者は禁固2年の実刑。

この事件が起こったヴァンデ地方では、オランド大統領に反対する政治家が「全ての人のためのデモ」を応援しています。彼らの差別的言論が、影響されやすい人々を興奮させ、暴力事件に至った側面は否定しがたいものです。しかし、事件後にインタビューされた政治家たちは反省の色も見せず、事件とは全く関係無しというコメント。

自由・平等・博愛を掲げる人権の国、フランスの影の顔でしょう。どの国にも光の顔と影の顔があります。それを認めることなしに健全な発展はあり得ませんよね。

「全ての人のためのデモ」は、オランド大統領の反対勢力である国民運動連合に対して、政権を取ったらこの法律を取り消すと約束させています。

同性愛者の友人アランはこう言いました。「ぼくは別に結婚したいなんて思ったことはない。あの法律ができてからというもの、白い目で見られることが増えた。そっとしといてほしいよ。」

2014年10月21日火曜日

ハロウィーン、なぜカボチャ?

フランスやベルギーには、ハロウィーンにカボチャで提灯を作る伝統はありません。でも、我が家では子供が幼稚園の時から作ってます。

こちらでは、学校で工作をする機会が殆どありませんし、子供にも細工しやすいカボチャは、畑からの嬉しい贈り物です。

でも、ずっと昔は、カボチャではなく、カブなどで作っていたそうです。考えてみれば、アメリカ大陸と出会う前のヨーロッパには、ジャガイモもトマトも、そしてカボチャもなかったのですから、当たり前といえば当たり前ですね。

ハロウィーンの行事というと、フランスでは、アングロサクソンの国から来たと思っている人が多いようです。ところが、かつては、フランスのブルターニュ地方やベルギーでも、甜菜に穴を開けて人の頭のように作り、中に蝋燭を入れるという習慣があったそうです。

甜菜を収穫するのが、ちょうどハロウィーンの頃で、それと同時に一年の畑仕事はほぼ終了。子供たちは、取れたばかりの甜菜で恐ろしげな頭を作り、窓や墓地にならべて、道行く人を怖がらせて楽しんだとか。

さて、なぜジャック・オ・ランタンというのでしょうね。アイルランドの昔話が元となっているようです。

むかしむかし、ジャックというケチで自分のことしか考えない男がおりました。ある日、ジャックは酒場で悪魔に出会います。

悪魔というものはいつもそうですが、魂をよこせとジャックに迫りました。ジャックは、もう少しで悪魔のいいなりになりそう‥というところで、 「契約にサインする前に、一杯酒を飲ませろ」と言います。

悪魔は、まあ良かろうと、6ペンス硬貨に変身。抜け目のないジャックは、すかさず硬貨を財布にしまって固く紐を閉めてしまいます。財布には銀の十字架が付いていたため、悪魔は魔力を使うことも元の姿に戻ることもできなくなり、「一年の間ジャックに魂を請求しに来ない」という条件の下、ようやく財布から出してもらいます。

さて一年後。ジャックは田舎道のりんごの木のそばで悪魔に会います。悪魔はもちろん魂を要求。ジャックはしきりと考えるふりをした後で、「わかったよ。でもその前に、りんごを一つ取って、俺にくれないか。」

悪魔がジャックの肩に乗り、りんごの木の枝にぶらさがると、ジャックはすかさずナイフを出して、木の幹に十字を刻みます。

またしてもまんまと動きを封じられた悪魔は、もう決してジャックの魂を取らないという約束をさせられました。

さて、そんなジャックにも死の時が訪れます。天国に入るのを拒否され、地獄に入ることさえ悪魔に断られたジャックは、最後の審判の日までさまよい続けることとなりました。やっとの思いで悪魔に分けてもらった燃えさしを、提灯代わりのカブに入れて‥

ジャックが死んだのは、ハロウィーンの日だとされています。カブがカボチャに変わったのは、1845年から1850年の大飢饉の時、多くのアイルランド人がアメリカに渡ってから。カブよりも大きいし、細工もしやすいからですね。

カボチャさえあれば簡単に作れるジャック・オ・ランタン。多くの子供たちの心をとらえ、秋の楽しみが増えたのでは。

関連記事 ハロウィーン フランスの場合

2014年10月18日土曜日

ハロウィーン フランスの場合

「ハロウィーンのカボチャや仮装はアメリカのものだから、けしからん。」 というフランス人も、中にはいます。 また、ハロウィーンは、ケルトの祭りをキリスト教に取り込んだものという説が有力ですが、 「ハロウィーンはケルトの真似なんかじゃない、元々キリスト教の行事なのだ。」 という人さえいます。

フランス語でハロウィーンは「トゥーサン」。「全ての聖人」という意味で、 英語のハロウィーンのもとになったAll Hallows Eve (全ての聖人の前夜)とほぼ同じ意味。万聖節と訳され、キリスト教では聖人と死者を奉る日です。

学校は10月18日から11月3日までお休み。家族で旅行に出かけたり、親族に会いに行ったり、お墓参りをする人も多いようです。この期間、両親が働いている子供達は、祖父母の家に行ったり、休暇センターに通ったりします。

ケルトでは、秋に古い年が終わり、新しい年が始まりました。日本より北に位置するヨーロッパでは、この時期から昼がどんどん短くなり、夜が長くなります。夏は夜8時でもまだ明るいのに、冬は4時を過ぎるともう暗くなり始め、朝8時に家を出る時はまだ暗いということになります。

かつての農民にとって、ハロウィーンは最後の取り入れの時期。この後、春まで畑仕事はおしまい。ケルトの人々は、ごちそうを食べたり踊ったり、さまざまなゲームをして、秋の新年を祝いました。

カボチャ自体は当時のヨーロッパにはなかったのですから、確かにアメリカから来たわけです。でも、アメリカの習慣というものは、先住民の習慣でもないかぎり、やはりヨーロッパに根があるわけで、仮装行列をするとか、子供達が家々をまわってお菓子をもらうとか、アメリカ式ハロウィーンに似たものは、ヨーロッパのあちこちでかつて行われていたものです。

カブに穴を開けて顔を作り、蝋燭を立てるという習慣は、アイルランドだけではなく、フランスのブルターニュ地方やベルギーにもありました。だんだん夜が長くなる頃、ランタンを灯すのは楽しいものです。

8世紀か9世紀に、正式にカトリックのお祭りとして取り入れらたそうです。ローマ教皇によって日付が11月1日に決められたのもその頃。アメリカなどで子供たちが仮装をするのは、前夜の10月31日ですね。

カトリック教会では、ケルトの民のように楽しく踊ったりというのはなかったようで、教会でランプや蝋燭を灯したりしました。19世紀になると、お墓に菊を捧げる人が増え、この習慣は今もある程度残っているようです。

とはいえ、アメリカなどアングロサクソンの国から入って来たハロウィーンの行事を楽しむ人は、フランスでも増えています。ショーウィンドーにかぼちゃや魔女を飾る店もありますし、ハロウィーン・パーティーをする人もいます。

おとなしくしているのがいいとされてきたフランスの子供たちも、楽しむ機会が増えていいのでは。家々を巡ってお菓子を貰う、というのは、フランスではちょっと想像外ですが、そんなことをしなくても、工作をしたり、部屋を飾り付けたりして、十分ワクワクできます。カボチャと家にある端切れの他には、何もいらないのですから。

(写真はパリのパン屋さんのショーウィンドー)

2014年10月16日木曜日

ノーベル文学賞2014 - 続き

「嬉しいです。でも、変だなぁ。」

というのが、AFP通信に答えたパトリック・モディアノの第一声だったそうです。

どんな文学に影響を受けたかという質問に、フランス文学以外ではアメリカ文学と日本文学、と答えました。「省略法」、「シンプルな文」という言葉を何度も口にしました。

モディアノと言ってもあまり馴染みのない方が多いかもしれませんが、日本でも人気のあるパトリス•ルコント監督『イヴォンヌの香り』の原作者です。ルコント監督もインタビューを受け、「びっくりしましたけど、とても嬉しいです。ノーベル賞は政治的にアンガジェしてる作家しか貰えないと思ってたものですから。彼の本は全部読んでますよ!『悲しみのヴィラ』を映画化した時、プロデューサーに譲歩して、タイトルを『イヴォンヌの香り』と変えたことを悔やんでます。」

モディアノ作品を出版しているガリマール社のアントワーヌ・ガリマールも 「まさか取れるとは思っていませんでした。ノーベル賞の審査員は政治的にアンガジェしている作家ばかり選んでいると思っていたので。(‥)でも私はノーベル賞のことを勘違いしていたんですね。この選択にブラボーと言いたい気持ちです。普通、出版社は少し前に知らされるものなんですが、今回は私たちも知りませんでした。」

6年前にノーベル賞を取った、同じフランスのルクレジオもガリマールから本を出していたわけですが、フランスの作家に限らなければ、ガリマールで出版した作家として、モディアノは40人目のノーベル賞受賞者となるそうです。ガリマールでは早速、10月始めに出たばかりのモディアノの最新作『君が近所で迷子にならないために』を十万部増刷する手配をしたとか。

過ぎ去らない過去をさぐり、ぼやけた記憶とあいまいな感情の中から、想像の糸を紡いで作品を生み出す‥モディアノ氏のインタビューは、そんな彼の作風通りだったようです。

「ええと‥そう‥つまり‥でも‥」

「その時までは、全てが混沌としてバラバラに思えた‥何かのかけらか切れ端が、時折だしぬけに浮かび上がって来るように‥しかし、結局、そういうものなのではないか、人生とは。」(モディアノ『薄暗い店の並ぶ通り』)

2014年10月15日水曜日

まぐろでパスタ


ベルギーにいた時買ったお米そっくりのパスタ。

ベルギーはイタリアにルーツのある人が多いので、色んなパスタが見つかります。お米の形のこのパスタ、イタリアでどんな風に使われているのか知りませんが、冷凍のまぐろと合わせてみました。

まぐろは冷蔵庫で半日かけて解凍。キューブ形に切ります。

オリーブオイルをフライパンにたっぷり取り、まぐろをさっと炒めて黒こしょうとチャイブを散らし、茹で上がったパスタと和えます。

まぐろは火を通しすぎないこと。

簡単ですが、家族にはけっこう好評でした。

2014年10月10日金曜日

ノーベル文学賞2014

2014年度ノーベル文学賞、フランスの作家パトリック・モディアノに‥

周囲のフランス人の反応を見ると、驚いているという感じです。9日当日は、番組を急遽変更するテレビ局があったり、翌10日の朝刊にはノーベル文学賞のことは一言も無かったり、メディアの反応もバタバタしています。

ノーベル賞の関係者は、発表前に作家本人と連絡を取ることができなかったとのこと。スエーデンで文学賞の発表があった時、モディアノ本人も知らなかったようです。

1945年生まれ、1968年に作家デビュー、その10年後には、フランス国内で最高の栄誉であるゴンクール賞を受賞。ノーベル賞では、第二次世界大戦下のパリを描いた約30篇の小説が評価されました。

フランス人のノーベル文学賞受賞者としては15人目。(この人数には、受賞時にフランス国籍を持っていても、フランス以外で生まれた作家も含まれているため、フランス生まれの作家というリストの場合、数が異なります)

これまでのフランス人受賞者の中には、ロマン・ロラン、アンリ・ベルグソン、アンドレ・ジッド、アルベール・カミュ、サン・ジョン・ペルス、ジャン•ポール・サルトルなどがいます。(ただ、サルトルは受賞を拒否しましたね。カミュが受賞した時さんざん批判したのですから、自分が受け取るわけにはいきませんよね。)

私は時々思うのですが、「文学賞」ではなく、もっと幅を広げて「文化賞」ということにした方が良いのでは、と。これまでの歴史を振り返れば、世界に大きな影響を与えた芸術家は作家以外にも大勢います。画家でも音楽家でも演出家でも、その他の分野でも良いということにすれば、ピカソは確かにノーベル賞を取ったでしょうし、カザルスがノーベル賞を取り損なう(平和賞に推薦されていました)こともなかったでしょう。もちろん、ピカソはお金はもう十分持っていたわけですが。

また、平和賞は、ノーベル賞誕生から今日に至るまで、重要な役割を果たしてきましたが、それに加えて、環境賞もあるといいのでは。野生動物の保護や異常気象解決のために、優れた貢献をした個人や団体を励ますという趣旨で。

ダイナマイトを発明し、「死の商人」と呼ばれることに苦しんだノーベルの富と遺言によって創設されたノーベル賞。1901年に最初の授与式が行われてから、人間の社会にも自然界にも、大きな変化がありました。

余の辞書にアルデンテという文字は無い

もう前世紀の話になりますが、フランスの地方都市でフランス語の夏期講習に参加し、色々な国から来た人々と友達になりました。

講習の後は、日本で知り合ったパリの友人宅にお世話になりました。イタリアから講習に参加していたG君もパリに何日か滞在するということでした。それではどこかで待ち合わせて食事でもしようか、という話に自然になりました。何を食べに行く?二人ともパリは不案内。

ぼくは何でもいいけど。
私はイタリア料理が大好き。フランス人の友達の家に泊まってるから、どこかおいしいイタリア料理の店を教えてもらっておくね。

当時の私は、フランスは食通の国なんだから、イタリア料理のおいしい店なんていくらでもあるはず、と思っていました。

フランス人の友人は、イタリア料理のレストランはあまり知らないということでしたが、一つ教えてもらった店に私たちは入りました。

二人ともパスタを注文。運ばれて来たパスタをフォークで口に入れた途端、私は真っ青になり、口ごもりました。

「ごめんなさい‥こ、これ、アルデンテじゃない‥」

パスタは、ふにゃふにゃだったのです。イタリア人をとんでもないところに連れて来てしまった!

しかし、正面に座ったG君はニコニコして 「アルデンテっていう言葉、よく知ってるね」

彼にしてみれば、イタリアの外でまともに茹だったパスタが食べられるなんて、最初から期待していないということだったのでしょう。

確かに、フランスの伝統には麺がありません。そして、何でも柔らかく煮るのが好きな人たちです。野菜でも、ピューレにできるくらい柔らかく煮るのが普通です。

日本には、蕎麦やうどんがあります。1分ゆですぎたら台無し、のびちゃったらおしまい、という感覚が身に付いています。

その後、パリの他のイタリア料理レストランでも、度々同じことを経験しました。パスタ以外の前菜、肉や魚料理がおいしくても、パスタのゆで加減はがっかり。ソースがおいしくできていても、パスタ自体の味や茹で方には何の拘りも感じられませんでした。

パスタ屋さんやピザ屋さん、パリにけっこうたくさんありますが、殆どのパリジャンにとって、安めにレストラン代をあげたい時に行くという感じです。日本を含め、アジアの料理もそんな位置にあります。もちろん、例外的に本格的な店もあれば、高い店もありますが。

ある時、郵便受けにレストランの宅配サービスのチラシが入っていました。その店では、ピザとスシを同時に扱っているそうです‥

こんなことがゆるされるのでしょうか?日本大使館とイタリア大使館は共同で抗議を申し込むべきだ‥

2014年10月8日水曜日

思い出す子供たち -1-

我が家の子供も今では小学校の高学年。まだまだ人生の初心者ですが、これまでにも色々な出会いがありました。その中でも、特によく覚えている子供たちがいます。

ムスコが通ったパリの幼稚園は、隣のマンションにくっついていました。園庭は幼稚園の建物の半地下にあり、 地面はコンクリートでしたが、表面にコンクリートを和らげるコーティングがしてありました。両側はゆるやかな階段状になっていて、子供たちが跳ねたりして遊べるようになっていました。

幼稚園で最初に一緒に遊ぶようになった男の子。金髪の巻き毛と青い目が愛らしく、ほっそりした子供でした。仮に、リスくんとしておきましょう。

ムスコは幼稚園に行きたくないと申します。甘えん坊だからかな、と思っていました。

ある日、帰って来たムスコの目の近くに小さな傷がありました。いつものように幼稚園の愚痴を並べ立てる子供に、「そんなことは大したことじゃないでしょ。」と言ってから、「ところで、その傷はどうしたの?」と聞くと、「リスくんに階段のところで蹴られて転んだの。でも、そんなことは大したことじゃないね」私はギョッとして、「それは危ないよ。そういうことはお話ししてね。」

幼い子には、何が重大なことで何が些細なことなのか、自分で判断をつけることができないのだ、全部聞いてあげなくちゃいけないのだ、とつくづく悟りました。

ムスコは毎日のようにリスくんにぶたれたり蹴られたりしていたようで、先生や園長先生に相談しました。

リスくんの態度は、先生からの指導があっても、ムスコがやめてくれと言っても、良くなりませんでした。ムスコにはリスくんから離れるように言いましたが、「だってあの子がついてきちゃうんだよ」

そして、リスくんはムスコにこんなことを言ったそうです。
「君がいなくなったら、ぼく生きていけない」
「パパもママも優しくしてくれない」
「家で気持ち悪くなったら、一人で洗面器に吐いて、自分で洗面器を洗うの」

我が家にリスくんを招いたことはありましたが、ムスコが「今度はきみのうちに行っていい?」と聞くと、「ママが駄目って言うから」

リスくんを預かっている女性も、子供に優しく接しているようには見えませんでした。

ただ、虐待を受けているとか、ご飯も食べさせてもらってない、ということはないようでした。それで、私は、子供から聞いたことをそっくり幼稚園に伝えることはせず、園長先生にこうお話しました。

「リスくんは、悪い事をするというので、幼稚園でしょっちゅう罰を受けているようですが、あまり効き目がありませんね。罰を与えるより、話を聞いてあげたらどうですか。家で寂しい思いをしていないか、預かってもらっている人との関係はどうなのか。」

リスくんは、幼稚園でもお腹が痛くなることが多かったようです。お腹が痛い、と言うと、先生は「私には何もしてあげられません」と答えたそうです。

フランスの幼稚園や保育園では、子供に薬を与えるにあたって、厳しい規則があります。園によっては、医師の処方箋がある時にかぎって、先生が薬を与えるところもありますし、処方箋があっても、園で薬は与えられないというところもあります。投薬によって万が一子供の状態が悪化した場合、責任を取ることはできないという立場です。

ただ、薬はあげられないとしても、「大丈夫?」と優しく声をかけてあげたり、慰めてあげるだけでも、子供は気分が良くなることがありますね。

リスくんの態度がひどくなり、ムスコが椅子から突き落とされたりしたある日、先生にお話すると、「リスくんは最近乱暴ばかりして、私はあの子に怒ってばかりいるんです」ということでした。怒ってばかりいるのは、考えなくてもできることです。

リスくんの態度が改まることはなく、ムスコは他の友達を作りました。相手が嫌がることをしたら、友達はいなくなる、相手が嫌がることをしなければ、友達ができる。この単純な法則を、彼も今は理解しているでしょうか。