2015年12月23日水曜日

野坂昭如さん逝く 2



子どもが小学校二年生のときだったろうか。学校で見せられた映画が悲しくてたまらないと言う。前半だけ見て、次は後半を見ることになっているのだが、あの映画を見るのだったら、その日は学校に行きたくないとまで言う。

一体どんな映画を見せられたのだろうと思って学校に問い合わせてみると、「火垂の墓」だった。

辛い作品。大人にとってでさえそうなのだから、小学校の低学年では受け止められなかったのかもしれない。

「どうしてあんな映画を見なくちゃいけないの」

そう聞く子どもに、当時、私はこんな風に答えたと思う。

「あの子たちが生きて、死んでいったことを、誰も知らなかったとしたら、もっと悲しいんじゃない?あの子たちのことを、みんなが忘れてしまったら、あんまりひどいじゃない。あの話は、あの子たちのことを、みんなが覚えているために、書かれたんじゃないかな。」

すると、子どもはうなずいた。

希望の無い話のように思える。しかし、「火垂の墓」の希望は、それが書かれたこと自体にあるのかもしれない。それが書かれ、私たちが読むことができるということ。世界中の言葉に翻訳され、映画化までされたということ。あらゆる時代に、あらゆる場所で、戦火の中に生き、飢えている子どもたちのことを、私たちが忘れないために。そして、もうそんな目に遭う子どもたちが、いなくなるために。

全ての優れた文学作品がそうであるように、「火垂の墓」は創作だそうだ。作者の実体験を、そのまま記録したのではない。自分は作中の少年のような優しい兄ではなかったと作者は語っている。幼い妹を優しく世話できなかった罪悪感を、野坂さんは一生背負っていたのかもしれない。

結婚した時、奥様に「今日の晩ご飯は何にしましょうか。」と聞かれ、「ご飯粒のようなもの。」と答えて怒られたそうだ。

そんな話を思い出しながらご飯を食べていると、お茶碗に付いたご飯粒が、螢のように光り出す気がする。

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