2018年1月16日火曜日

相撲道に拘るか、それとも勝てばいいのか



あらゆることが時代に連れて変わっていくのだから、相撲だって変わっていくに違いない。

かつて見過ごされていた暴力は、今は到底認められない。

ただ、明文化されたルールさえ守ればいいのか、それとも横綱はやはり横綱らしい相撲を取らなければならないのかという問題になると、問題はもっと複雑である。

ふと思い出したのは、アメリカでとても人気があったバスケットボール選手の話。

彼は黒人で、黒人にも白人にもファンがいた。

しかし、試合をどう評価するかに関して、黒人と白人では視点が違うと読んだことがある。

もちろん、白人といっても色々な人がいるし、黒人といっても色々な人がいる。
十把一からげに言えるものではない。
それでも、試合の翌日、試合を見なかった人が見た人に尋ねる文句が違うというのだ。

「彼は何点入れた?」
こう尋ねるのは白人に多く、
「彼は踊ったか?」
こう尋ねるのは黒人に多かったという。

「彼は踊ったか」とはどういうことだろう。
私はバスケットのこともその選手のこともよく知らないので、「踊った」が具体的にどんなことを意味するのかは分かりかねる。

彼が本当にノッテいるとき、彼の動きが踊っているとしか言いようのないものになるのか。
それとも、彼は本当にノッテいるときや点を入れたときなど、実際に踊ることがあるのか。

いずれにしても、ここに垣間見えるのは価値観の違いである。

何点という効率優先の価値観と、本当に燃焼したかという、効率では計れない幸福度のようなもの。
美的感覚。

横綱が張り手するのを見たくない、美しくないとする価値観と共通している。

倫理観もある。
横綱のような強い人、山の天辺に立っている人は、下から登ってくる人を正面から受け止めなくてはならない、というのは倫理観だろう。

効率主義で、経済に於いて世界の勝ち組となった西洋。
その中心的存在であるアメリカに生きるアフリカンアメリカン。
効率主義に追いつき追い越した日本人。

何世代にわたってアメリカに生きながらも、西欧的価値感に縛られない感覚を持ち続けるアフリカンアメリカン。
経済では効率主義を取りながら、経済と無関係なところでは別の感覚を持っている日本人。
案外近いものがあるのかもしれない。

もちろん、世界は西洋対反西洋という二項対立ではない。
西洋以外の世界にも色々違ったものがあるし、西洋の中だって、実は単一とはいえない。
日本の中だって単一ではない。
その単一ではない日本の中に、良くも悪くも、効率的とか合理的ではない価値観も息づいているということか。


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