2018年6月20日水曜日
新幹線殺傷事件で思う連帯という言葉の意味 -3-
ワールドカップの初戦で日本がコロンビアに勝つという快挙を成し遂げ、渋谷に集まっていた人々は沸き返った。
普段、東京では知らない者同士が声を掛け合うということは少ない。
「サッカー」という共通項で、見知らぬ人々が喜びを共にした。
これもスポーツの効用にちがいない。
普段の生活に戻れば、日本人が知らない者同士で声を掛けにくくなったのはいつからだろう。
都市部と小さな町、村でも違いがある。
ある若いフランス人の女の子が東京で生活した時の話だ。
彼女は東京が好きだったが、人と人との関係が疎遠だとも感じていた。
ある日、駅で転んでしまった。
大したケガをしたわけでもないが、とても寂しくなってしまったと言う。
誰も声を掛けてくれなかったからだ。
休暇でパリに戻った時、階段でちょっと躓いたら、周りから一斉に
「大丈夫ですか。」
と言われて安心したとか。
私も、パリで始終同じような光景を目にした。
パリのメトロでベビーカーを使っていた時は、いつも他の乗客に手伝ってもらったものだ。
フランスはドイツほどバリアフリーが進んでいない。
日本人はシャイだから、大ごとでない限り声を掛けられないのだろうか。
大災害でも発生しない限り、私たちは「助け合いの精神」を発揮できないのだろうか。
しかし、それでは説明がつかない。
十年以上前に、若い男性が駅のホームで死ぬまで殴られるという事件があったのを覚えているだろうか。
混み合う時間帯でホームに人が溢れていたのに、誰も関わり合いになろうとしなかったという事件である。
その時犯人は、銃もナタも持ってはいなかった。
自分のすぐ近くで一人の人が殺されていくのに、反応しない群衆。
私たちの社会は一体どうなってしまったのだろうと戦慄した人は少なくなかったのではないか。
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