2018年2月1日木曜日
指導死を繰り返さないために ー 子どもの叱り方
ニュースによれば、「指導」の後死んでしまった生徒たちは、別に「悪いこと」をしたわけですらない。
学校でお菓子を食べた。
学校行事の準備が進んでいなかった。
これらは「悪いこと」ではない。
「校則に反すること」に過ぎない。
集団生活をする上で、最低限でも規則は必要だろう。
だから、学校ごと、会社ごと、家庭ごとに規則がある。
他所ではいいかもしれないが、この集団ではそれはしないことにしよう、ということだ。
それとは違って本当に悪いこともある。
他人を傷つけること、自分を傷つけること、仲間外れにすること、いじめること、盗むこと、殺すこと、あいつが盗んだと嘘を言って人を陥れること、などなど。
したことの重大さに応じて叱り方にも軽重をつけないと、指導にはならない。
例えば親が、他の子をいじめた時よりテストの点が悪かったときに厳しく叱りつけたとする。
子どもに与えるメッセージは「テストの点さえ良ければいじめてもいい」であろう。
大人は叱ることによって子どもに価値観を伝えている。
小さなことで一々ガミガミ言っていると、指導死には至らなくても、子どもには何も伝わらない。
どんなに叱っても、いつも鳴っている雑音のようなものと化し、意味が伝わらなくなってしまう。
例えば、学校でお菓子を食べた程度のことなら注意に留め、仲間外れがあったら真剣に叱ってみてはどうか。
子どもは何が大切なことなのか、感じ取るだろう。
「服装の乱れは心の乱れ」みたいな言い方が一部でなされているようだが、本当だろうか。
詐欺師はいつも、きちんとした身なりをして、挨拶も立派なものである。
ノーベル賞を取るような研究者や芸術家は往々にして服装に無頓着だ。
形から入って心を整えるというのは確かに一理ある。
だが、形ばかりに拘っていては何も始まらない。
わざと校則を破る子がいたら、その子は先生や親の関心を引きたいのか、反抗したい理由があるのか、あるいは単に反抗したいお年頃なのだろう。
自分なりのオシャレをしたいお年頃なのかもしれない。
学校や家庭で指導を誤れば、非行に走ることもある。
鬱になることもある。
指導死は最悪のことの一つ。
指導死しなくても、問題がないということにはならない。
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